2012年 03月 07日
ここ数年、年老いた母は、家で鬱々と過ごすことが多く、次第に調子も悪くなっていた。いろいろな理由があるけれど、ここ数年病気がちなことが最大の理由。そのため歩くことが減り、足腰がかなり弱り、さらに病気がちになり…という悪循環になっていた。 ことある度に、少しでも(家の中ででも)歩いた方がいいと強く言っては来たのだが、なかなか子たちの言うことは聞かず…。しかし、先週の父親の13回忌に来ていた親戚(80歳の女性)が、うちに泊まった時に、一緒に出かけ、かなりの距離を歩き、それをきっかけに元気になったという。 たった2−3日のことだったのに、家で立ち上がったり歩いたりする姿もだいぶ変わり、表情も見違えるように明るくなった。 その変化を見て、「だからあんなに歩くことの大事さを言ったのに…」という思いと、「無理にでも、一緒に出歩くようにすれば良かったんだよね」という反省する気持ちとが去来。 しかし、母親の性格を考えると、僕や姉が無理に連れて出歩こうとしても、きっと簡単には応じなかっただろうなと予測がつくし、歩いている間も、すぐに不満が出たりして、お互いいい気分ではなかったのではないか…と思う。 親子という近い関係では、ついついお互い甘えが出がちで、衝突を生みやすい。今回のことは、「やはり、少し距離感のある人が介在することが重要だなぁ」と改めて認識するきっけとなった。 また、来ていた親戚は、冗談を良く言う、とても明るく前向きな人。その性質も良かったのだろうと思う。それは、僕の家族にはない特徴だ。家庭の中で生じがちな問題は、家族が共有している性質を土台としていることも多い。 だから、それを共有していない人が入ることが重要になるのだろう。しかしまた、あまりにも全てを共有していない人だと難しい面もある。今回は、親戚であり、彼女が那覇に住んでいた頃によく世話になったということが功を奏したようだ。 おそらく、このことは、家庭だけでなく、様々な集団やコミュニティにも言えることなのだろう。時に、違う視点、違う性質からのアプローチが、行き詰まりを突破させる力となる。 しかしそれは、逆に言うと、その集団やコミュニティの既存の体制や構造、あるいは構成員の心性をも変えてしまう可能性もあるということだ。だからこそ、集団にとっての他人(つまり他者)を恐れ、排除しようとする動きが生まれて来るのだろう。 そして皮肉なことに、行き詰まれば行き詰まるほど、同質なもので集まり排外的になっていく。その方向性に、救いはない。 …自分の家族の経験から、そんなことを考えた。少し、話を膨らませすぎたかな?
by hideki_sunagawa
| 2012-03-07 05:23
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