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2010年 11月 08日

ラヴズ・ボディ@東京都写真美術館

東京都写真美術館で開催されている、「ラヴズ・ボディ」を見て来た。

やはり、オーストラリアの写真家ウィリアム・ヤン氏の一連の作品が、強く印象に残った。友人の見舞いに行った「AIDS病棟」でたまたま再会したという元彼「アラン」を撮った写真に、ヤン氏の言葉が書き添えられているというものだ。

亡くなるまでの一年間を写したものだけに、最後の写真は正視するのがつらいという人も少なくないだろう。僕も、言葉を失った。

しかし、意外な心境だった。もともとどういう作品か聞いていたので、「あまりにもつらくて重い気持ちになるのでは」と予想していたのだが、そこにあったのはそういう感情ではなかった。

ふと思い浮かんだ言葉は、「尊厳」(尊厳死、ではなく)。

おそらく、その最後の写真だけ見たら、ただただショッキングで、どう処理していいかわからない暗い気持ちになったかもしれない。

けれど、既に病床にいるところから始まっているとはいえ、19枚の写真は「生きている」記録であって、決して「死んでいく」記録ではないという印象を僕は受けた。「死」は「生」の一部なんだと改めて思った。

いや、極端な言い方をすると、「死」は「生」のクライマックスなのかもしれない。まるで、肉体が苛酷に変化していく中で、逆にその人の精神性が浮かび上がっていくかのようにも見えるからだ。

だから、その人を見つめ続けて、寄り添い続けていれば、その人の肉体がいくら変わってしまっても、その人らしさを感じとることができるし、その人への愛も変わらない。


僕は、その作品を見ながら、今の僕とほぼ同じ年で亡くなった姉のことを思い出していた。亡くなる数ヶ月前から容姿の変化が激しく、見舞いに帰省して、その状態を目の当たりにしたときのショックは本当に大きかった。今でも、そのときの気持ちが、自分の人生観に大きな影響を与えているくらいだ

しかし、手をさすったりしながらそばに居るうちに、やはり僕の良く知っている姉であることを実感するようになった(彼女は、意識も混濁しがちだったので、言葉のやりとりも十分にできたわけではないのに)。そして、僕が帰るときに見せてくれた笑顔は、昔と同じ笑顔に見えた。


ここ数年、何人もの友人、知人を見送ってきたせいか、あるいは自分も病気がちなせいか、最近、自分の死を強く意識することがある。正直怖いと思う。そのときの、自分の容姿の変化に不安も覚える(多くの病気は、死が近づくと肉体は大きく変わって行く)。でもこの写真を見て、不思議なことに、ちょっとだけだけど、「大丈夫かも」と思えた。

きっと、まわりの人たちは、去って行く僕を、それまでと同じように変わらずに愛してくれるだろう。そして、日々の生活を懸命に生きれば、肉体がどんな風に変化していっても、消えて行く肉体の中から浮かび上がる僕らしさは、決してみじめなものではないはずだ。

…と言いながらも、実際に病床に伏すことがあったら、不安に押しつぶされそうになれるに違いない。でも、そのときは、今日書いたことの言葉を思い出し、自分に言い聞かせることにしよう。

by Hideki_Sunagawa | 2010-11-08 23:44


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