<   2014年 05月 ( 3 )   > この月の画像一覧


2014年 05月 28日

「宿題」に生かされる

READYFOR?というクラウドファンディングを使って資金集めをしていたプロジェクト「同性カップルの『里帰り結婚式』をピンクドット沖縄で実現したい」は、おかげさまで、目標達成額を越えました。皆様のご支援に心から感謝申し上げます。ありがとうございます(まだ支援募集中です)。

先日、「里帰り結婚式」の主役であるゲイカップルのお一人、沖縄出身の金城一樹さんのお母さん、弟さんにピンクドット沖縄共同代表の宮城、実行委員の小渡と一緒にお会いしてきました。今回は、そのときのお話を…

a0137527_110063.jpg


▼里帰り挙式の意味

弟さんとは何度かFacebookを経由してやりとりがあったもののお愛するのは初めてで、お母さんとはまったくやりとりをしたことがなかったので、お会いするまでとても緊張していました。

しかし、率直にご自身の気持ちを語られ質問してくださったお母さんと会話をする中で、緊張を忘れるような熱い気持ちに。

まず僕から、お母さんに、今回のプロジェクトの始まった経緯やその意義等についてご説明。

挙式を挙げる一樹さんと私とは直接お会いしたことはないけれど、同じ沖縄で思春期を過ごしたものとして(時代は違えど)、そこに住む同性を愛する人、同性のパートナー/恋人がいる人たちに希望を与えたいという思いを共有していると。

一樹さんが、沖縄に住んでいる頃にラジオを通じて知った、同性パートナーと米国で(結婚して?)住んでいらっしゃる沖縄出身のゲイの方の存在に励まされたとおっしゃっていたこと、今度は自分がその番になることを考えていらっしゃるのだろうということについても伝えました。

そのラジオの方は、仮名での出演で、スタジオでもできるだけ顔を合わせないように工夫されたものだったとか。今度は、一樹さんが実名で登場し、パートナーと皆の前で挙式をあげる…その意味をお母さんは理解してくださったように感じました。


▼お母さんのお気持ち

お母さんは、自分が一樹さんのこと、ハロルドさんとの関係を受け入れられるまでに時間がかかったことも話されていました。今も時折、「世間」のことを考えて揺れることも率直に語ってくださいました。

それに対して、私は、「ゲイやレズビアンなどの当事者も自分のことを受け入れられるのに十何年、あるいは二十何年も(あるいはそれ以上)かかります。伝えられた側も同じだと思います。また、同性愛を笑い、嫌悪する言葉をたくさん見聞きしてきた以上、『当事者』でも、心のどこかに同性愛を否定する気持ちが取り込まれているんです。揺れて当然です。」と答えました。

お母さんの揺れる気持ちを聞いていた宮城は、「自分の母親もいろんな気持ちがあったんだろうなと思うと…」と込み上げるものを押さえ切れずに、声を詰まらさせて涙を拭っていました。彼女も、昨年、ピンクドット沖縄後に新聞にレズビアンとして登場し、それをきっかけにお母さんにカミングアウトしていたので、そのことと重なったのでしょう。


▼弟さんの言葉

そんなやりとりをじっと真剣な、しかし温かいまなざしで見ていらした弟さんでしたが、お母さんから「何か聞いておきたい事ある?」と聞かれて、ある思いを語ってくださいました。それは、「質問というより、お願いがあります」という言葉で始まりました。そしてこう続けられました。


「母のような人は、マイノリティの中のマイノリティだと思うんです。LGBTは、仲間と出会うこともできますし、これから10年先にはにだいぶ状況も良くなるでしょう。

でも、親は同じ立場の人に出会い、つながることは難しいです。母も一人で抱えて大変だったと思います。相談できる人もいなくて。

だから、今回のことも含めて、自分たちの経験を、周りの人たちが受け止めいく経験をなんらかの形で他の同じような人たちに伝えていく方法を考えて欲しいんです。自分たちの経験を活かしてください。」


かみしめるように、真摯に心の底から出て来るようなその言葉に、それまでこらえていた涙がが僕の頬を伝いました。以前から、お兄さんを支えようとする弟さんのお気持ちに感動していたのだけれど、弟さんが、お兄さんやお母さんと同じような立場の人たちのことまで考えていらっしゃったこと、そのために自分たちの経験を約に立てたいという思いに心が揺さぶられました。


▼宿題として

僕は、「自分たちの経験を、他の同じような人たちに伝えていく方法を考えて欲しい」というその言葉に宿題をもらったという気がしました。

どのように今回のことも含め、金城さんのご家族の経験を活かし伝えて行くことができるのか…。以前から、LGBTの家族のことが気になっていただけに、そろそろそのことをめぐって本格的に動く必要があるかもな、と思いました。

そして、その宿題を与えていただいたおかげで、「まだ生きなければ」という思いも。

実は、僕は常に「死」への意識が頭にある者です。それは、これまでまわりで若くして亡くなる人が少なくなかったことから、「人はいつ死ぬかわからない」という意味でもあるけれど、ベースに自殺念慮(というより生きる事を放棄したくなる思い)があるという意味ででも。

僕を愛し支えてくれる僕にはもったいないくらいのすばらしいパートナーがいて、一緒に活動をする信頼する仲間たちや様々な場面で支えてきてくれたありがたい友人たちもたくさんいて、自分の理解してくれる家族がいるにも関わらず、なぜかそうなのです。その理由はわからないけれど。

経済的な問題のせいかもしれないし、幼い頃からの様々な体験(ゲイであることに由来することも含め)のせいかもしれないし、あるいは、大切な友人を失った経験からかもしれません。おそらくそれらの混合か…。

時期によってもだいぶ違うのだけれど、最近は、また、いくつかの問題からまたヤケになる気持ちが高まり、そのような思いが強まることが少なくない時期だったりもします。そんな中、弟さんがくださった宿題に、生き続けるようにと言われたような気がしました。


▼宿題に生かされる

僕は、その言葉を通して、「お願いがあります……生きてください」と言われたかのようにすら感じました(そう感じたということは、生きることを放棄したい気持ちとともに、当たり前だけれど、常に「生きたい」という思いもあるということと思っています)。

思い返してみると、いつも「宿題」に生かされてきたようなところがあります。「このイベントを成功させるまでは」「このことを成し遂げるまでは」「いろんな人たちからの支援に応えるまでは」…等々。

それでもなお、いつか「もうダメ」と立ち止まり人生から降りたくなるときが来るのではないかという不安もあるけれど、でも今は、そのいただいた宿題をこなすことを目指して「今日一日、明日一日」と言い聞かせて歩んでいこうと思っています。

その一日一日を支えてくれている皆に感謝しつつ。そして、その先まで生きるための宿題をもらえたことにも感謝しつつ。


ーーーーーーーーーーーー
→ ブログトップへ
[PR]

by hideki_sunagawa | 2014-05-28 11:02 | Diary
2014年 05月 25日

「人生は旅行」

今日、5月25日は、新宿二丁目振興会・初代会長だった川口昭美さん(享年50歳)の命日だ。2002年に亡くなったので、丸12年、13回忌となる。

川口さんは、僕が2000年に東京レズビアン&ゲイパレード(後の東京プライドパレード)を始めたときに、それを機に二丁目でも何か…という僕の提案を大きく展開してくださって、東京レインボー祭りを始めた方だ。また、二丁目を早い時間から楽しめる街にしたいと始めたのがカフェレストラン「CoCoLo cafe」を開店されたりした。

当時、僕は、レインボー祭りの実行委員会にも参加させていただき、一緒に警察への交渉にも赴いた。そのような付き合いの中で様々な話をし、いつも励まされていた。

それ以前の東京のパレードは二丁目との関係が薄かった。僕はそれを近づけたいと思って昭美さんや、ゲイビジネスを展開されていた方々に相談し、昭美さんがそのお一人として大きな力を発揮してくださった(ほかにも、バディさんやGメンさんといったゲイ雑誌の大きな後押しもあり、またお店として協力してくださった方々などたくさんの方がご協力くださったおかげで、パレード&レインボー祭りは大成功となった)。

そのときに、そのような結びつきが生まれなかったら、パレードはかなり違ったものになっただろうし、レインボー祭りのようなものが生まれるのもだいぶ後になったことだろう。今でこそあって当たり前のような祭りも、それを始めるのにはどんな苦労があったろうか。

明るく豪快に笑い、感情を率直に表現する昭美さんに魅了された人は多い。昭美さんが、所轄の警察で言われたひどい言葉に対して「そんな言い方ないんじゃないですか!」と怒っていたのを思い出す。ミーティングでも率直に自分の意見を言い、他のメンバーと激しく議論をすることもあった。でも、やはり、最終的にはその豪胆さで、人々を引っ張った。


…あ、今年の僕は、昭美さんがレインボー祭りをおこなった歳と同じ歳だ。でも、いつまでも昭美さんは、僕にとっての大先輩。とても親しく付き合わせていだだけるようになってから別れまで数年しかなかったけれど、出会えたことは本当に幸せなことだったと思う。

彼は、『パレード 〜東京レズビアン&ゲイパレード2000の記録〜』の座談会の中で、伏見憲明さんの語った「レインボー祭りもそうだと思うけれど、パレードもどう楽しむのかっていうのがベース」という言葉を受けて、このように語っている。「やっぱり思い出づくりよ。人生は旅行だと思うの、本当に。旅よ、ウン。」

昭美さん、僕は旅の途中にあなたと出会え、一緒に思い出をつくることができたことに感謝しています。そして、今もその思い出の中のあなたの笑顔と言葉に励まされています。ありがとうございます。

a0137527_1139798.jpg

(『パレード 〜東京レズビアン&ゲイパレード2000の記録〜』ポット出版、より)

ーーーーーーーーーーーー
→ ブログトップへ
[PR]

by hideki_sunagawa | 2014-05-25 11:05 | LGBT/gender
2014年 05月 01日

母親の言葉

沖縄タイムスで30年間記者を務められた後、フリーのジャーナリスト/ライターとして活躍されている山城紀子さんが、『季刊セクシュアリティ』という雑誌で、ピンクドット沖縄や私をめぐる話を書いてくださった。

主な話は今年の2月14日にジュンク堂書店那覇店で開いた「誰もが誰かと一緒に歩けるように」というトークセッション(僕と僕のパートナーやピンクドット沖縄共同代表の宮城のトーク)についてだが、終わりの方で、僕の母親へのインタビューが掲載されている。

僕がゲイであることを受け入れるのにずいぶんとかかったけれど、僕がパートナーを紹介し、何度か一緒に食事をしたり、また、僕が東京で大きな手術をしたときにそばに彼がいてくれたことを知る中で気持ちが変わったという話が書かれてあった。

自分がゲイであることについてどう思っているか改めて母親に聞いたことはなかったこともあり、読んでいて色んな思いが去来し、胸が熱くなった。

しかし、僕が込み上げるものがこらえきれなかったのは、僕がゲイであることと直接的には関係のない、次の部分だった。

ーーー
その日砂川さんの母・博子さん(78)はあるエピソードを紹介してくれた。「忘れもしない、秀樹が小学校3年生ぐらいの時、集金の人が来たのだけれどお金の準備がなかったものだから息子に『お母さんはいないと言ってくれ』と頼んだんです」。そう言って苦笑した。秀樹さんの表情は明らかに困惑し、返事はなく、しばらくして「なぜ、うそをつくの?」と嫌がった。「とっても正直な子なんですよ。子供の頃から」。
ーーー

なぜこのエピソードに涙がこぼれたのか正直わからない。僕自身はすっかり忘れているそんな小さな頃のことを覚えてくれていることにだろうか。母親が自分のことを「正直な子」と思っていたと初めて知ったからだろうか。そのことと、自分がゲイであることをカミングアウトし、オープンにし生きていることを結びつけて理解してくれていたと知ったからだろうか。

あるいは、お金がなくてとても苦労していた親のウソを責めるような態度をとったことへ心の痛みだろうか。

この掲載誌を届けてくれた山城さんに「こんなエピソードを語ってたんですね、僕は全然覚えてない…」と言ったら、「博子さんは、そんな正直な秀樹さんにウソをつかせたりしたことに今も胸を痛めてるって言ってましたよ」と。

母親と僕は、あまりにも世界観が異なるゆえに(ある意味で持っている「言語」も全く違うがゆえに)、つながり得ない面の大きさばかりを感じて来たけれど、ようやく母親と何かが結びついた気がした。きっと、そんな母親の思いは、山城さんがインタビューしてくださらなかったら知る事はなかっただろう。

山城さんのこの連載のタイトルは「沈黙の声を聴く」。そのタイトルは、これまでマイノリティが語ることができなかったことを主に指しているのだと思うが、僕にとって、今回の記事は、まさに母親の沈黙の声を聴くものとなった。

そんな機会をつくってくださった山城さんに心から感謝したい。そして、もちろん、これまで他人の問いに答えて自分の気持ちや考えを語るという経験がなかったにも関わらず、このインタビューを引き受けてくれた母親にも。




ーーーーーーーーーーーー
→ ブログトップへ
[PR]

by hideki_sunagawa | 2014-05-01 21:26 | Diary