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2013年 10月 20日

社会の変化を感じた日…

前回書いた、ゲイネタへの反応もLGBTあるいは同性愛に関連して「社会の変化を感じた」ことの一つだが、その出来事と同じ週にあった別のやりとりにも、同じような変化を感じることができた。

それは、レインボーアライアンス沖縄で申請した、那覇市の福祉系の助成金申請に伴うプレゼンテーションでの雰囲気だ。以前、沖縄県のNPO関連の事業委託のプレゼンテーションで、驚くほどひっどい対応を受けたことがあったので、「どうせ、またヤな感じなんでしょ…」と思いつつ向かった(「ヤな感じ」の対応を受ける、というのは、LGBT関係のものでは、ごくごくありふれたことなのだ)。

しかし、審査員の人たちの話を聞く態度、質問内容ともに真摯なもので、こちらの内容をちゃんと受けとめてくれているという印象を受けた。本来なら、関心の無い問題でもプレゼンテーションは真摯な態度を示すべきものなのだろうが、LGBT関連はそういう態度を示さなくてもいいかのような対応をこれまでさんざん受けきたものとしては、驚きだった。

そして、その後の発表でプレゼンテーションが通り、大きな額ではないが助成金をいただけることになった。これからおこなうLGBT講座のためのテキストづくりや、基本的な知識が得られるサイトづくり等のためのもの。

沖縄で福祉系の助成金でLGBT関係に下りたのは初めてだと思う。那覇市は、ピンクドットの共催ともなってくれたし(なは女性センター等の後押しのおかげなのだが)、本当に、素晴らしい。

もちろん、これは、社会全体が大きく変わったということではない。福祉系のものだったから、ということもあるかもしれない。今も、先に挙げたところの審査員はひどいままかもしれない。しかし、確実にそうではない人たちが増えているということだ。マイノリティ活動は社会をひっくり返すもの、というより、共感する人、協力する人を少しずつ増やしていくもの。その先に大きな制度的変化がある。

沖縄に帰って来るときの動機の一つに、沖縄なら(というくくりは大きいかもしれない、「那覇なら…」だろうか)、東京のような大規模な都市とは違い、変化が見えやすいはず、というものがあった。その予想はあたっていたと思う。しかし、まだまだやるべきことがあるような気がする。がんばらねば。
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by hideki_sunagawa | 2013-10-20 21:25 | LGBT/gender
2013年 10月 13日

「ゲイネタ」がウケなくなる日

10月11日(金)、薬物依存症回復施設「沖縄ダルク」の、「19th感謝フォーラム〜終わりなき旅〜」に足を運んだ。準備していた椅子では全然足りなくなるほど、多くの人が集まっていた。各地方からも駆けつけていたようだ。会場へ向かうエレベーターでたまたま一緒になった人は、「三重のダルクから来ました」と言っていた。

沖縄ダルクの代表の森廣樹さんには、今年の2月にGRADiで開催した「コミュニティリーダーに話を聞く」(主催:レインボーアライアンス沖縄)に来ていただいて話をうかがった。また、ピンクドット沖縄でも、沖縄ダルクの方々にエイサーを演舞してもらったりした。

メンバーのうちの7人が10分ずつ自分について話をするのを聞きながら、森さんが2月に来られたときに、「人はいつからでもやり直せる」という言葉を思い出したりした。とても良い会だった(最初の方しかいられなかったけど…)。


そして、タイトルに関係する話…

会の最初の方で、登壇した二人のメンバーが、次々と映し出される沖縄ダルクの仲間一人一人のスライドを見ながら、その人それぞれについて語るコーナーがあった。仲間のつながりを感じさせる温かいものだった。

その中で、説明していた人が、若い「ハンサム」なメンバーの写真が出たときに、「一番のイケメンです。自分が女やったら惚れたと思います(苦笑)……あ、自分はゲイではないです」と、軽く冗談めかして言った。そんなにホモフォビック(同性愛嫌悪的)な印象を受ける言葉ではなかったが、「ゲイである/なし」が冗談化されていたのは確か(さらに深く突っ込むならば、男に惚れるのに、別に女である必要はないという指摘もできる)。

僕は、これを聞いて「あーあ…」と思った。しかし、僕が今回ブログに書こうと思ったのは、この言葉そのものに対してのあれこれではない。この冗談めかした言葉に対する会場の雰囲気についてだ。

実は、この冗談に対して、満員の会場からは、クスっとした小さい笑いすら聞こえなかった。その前と雰囲気も全く変わらなかった。これまでの経験上、このような冗談には、程度の差こそあれ必ず笑いが起きる。LGBT関連の集まりか、それに近い集まりでない限り。たとえ、別の社会問題をテーマにしたような集まりでも。

この時のこの無反応が、ある意味、彼の「微妙な冗談」に、差別的なニュアンスを帯びさせずにすんだ。もちろん、聞いている僕もほっとした。ここで笑いが起きていたら、とても傷ついただろう(いくつになっても、オープンリーゲイとして生きていても、そういう時には傷つく)。そして、彼の発言に怒りをもったかもしれない。

ここで笑いが起きなかったのは、全国各地のダルクにはLGBTが結構いて、顕在化していることも関係しているかもしれない。いずれにせよ、僕は、この場面に、「時代が変わってきた」ということを実感した。また、こういう冗談も、ウケなければ、その意味が変わるということもはっきりとわかった。

正直、社会全体では、このような冗談は笑いのネタとして機能することが圧倒的に多い。どんなにLGBTの存在が「当たり前」になっとしても、そういう冗談を言う人はいて、笑う人もいるだろう。しかし、これから、それに笑わない人(「笑えない」と思える人)が増えていけばいいのだ。その先に、さらに大きな変化が待っている。


***ちなみに、僕はゲイや他のマイノリティに関する冗談がすべて問題とは思っていない。詳細には論じないが、そうである/ない、ということそのものを冗談として使うこと(「お前、〜じゃないか? ははは」「おれ、〜じゃないから。ははは」といったもの)や、その社会の中で差別や抑圧の土台となっているステレオタイプを強化するようなものなどは問題を含み持っていると思う。もちろん、その意味は、「誰が、どこで、誰に向けて発しているか」という文脈にも大きく依存することは言うまでもない。
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by hideki_sunagawa | 2013-10-13 19:47 | LGBT/gender
2013年 10月 05日

東京パレードを陰で支えた人

東京都職員だった飯田真美さんが亡くなったことをツイッターで知った。

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彼女は、LGBTフレンドリーで、東京プライドパレードを陰で支えてくれた人の一人だ。また、このツイートから、彼女が、他の問題にも精力的に取り組んでいたことを知った。

感謝の思いを込めて、安らかな眠りを、と祈りたい。

そして、この訃報を受けて、彼女のような人の力添えがあって東京のパレードがあったことを書き残さねばと思った。東京のLGBTのパレードは、3年おきくらいに中断したり、僕が東京プライドを去った後は「分裂」したりしたために、あれこれ言われるが、それでも回数を重ねる中で、着実に開催しやすい環境が出来、それまでとは違う形のデモを定着させたのは事実だ。

その陰には、彼女を含め、いろいろな人の協力や工夫があった。これは、過去の苦労話のためではなく、今後新しく何らかの活動をどこかで始める人のために書いておきたい(全部書くととてつもない長さになるので一部だけ)。


▼2000年のパレード

それ以前に開催されていた南定四郎さんのパレードが大規模な形で開催された最後は1996年。その後、僕は2000年に東京でパレードを改めてスタートさせることにした。南さんが1994年にパレードを始めなければ、日本でパレードが誕生するのはだいぶ後のことだったろう。

また、1996年から始まり、今年までほとんど毎年開催された札幌のマーチがなければ、僕も2000年に開催することを想像できなかったと思う。また、僕は、1999年に札幌のマーチに参加して、翌年の東京パレードの開催予定を発表したのだが、そのときに札幌の実行委員の方々からたくさんアドバイスをもらった。それはその後とても参考になったものだ。

2000年のパレードを支えてくださった方々の名をすべてあげることはできないが、『バディ』や『G−men』の盛り上げがなかったら、あそこまで大きくなることはなかっただろう。『バディ』には、僕がパレードにかかわった最後までご支援いただいた。いくら感謝してもしきれない。


そして、開催をめぐる様々な交渉とその結果についても、記録として書きとめておきたい。

当時、代々木公園は行政の後援がなければ利用できず、そのために東京都の衛生局から広場で開催したHIV啓発の催しへの後援をもらうという、かなりアクロバティックな方法で使用させてもらった。当時の都のエイズ担当者ががんばってくれたおかげだ。

警視庁とのやりとりは難航した。当時の警視庁のデモのイメージは、組織参加で、人がシュプレヒコールをあげて歩くというもの。各団体の前にフロートと呼ばれる車を置くことをめぐってはかなりの交渉が必要だった。開催直前に、「最後尾に車は並べてください」ということを求められたが、各集団を統率するためのものであると押し通し、かならずスピーカーを設置することになった。

また、個人参加が多いことから、登録して数を把握してください、そして登録した目印を、と言われたことから考えついたのがリボンという参加証だった。

今のLGBT系のパレード主催者も、他の個人参加デモの主催者も、警視庁の要求を飲み過ぎと言うかもしれない。しかし、最初の開催を実現する際には、どこまで押し引きが可能なのかはわからない。当時は、とりあえず開催にこぎつけるために、できる限り応じるということが重要だった。


▼その後の会場問題

その後、代々木公園の会場をパレード開催のために使うなら、パレードそのものに行政の後援が必要という条件がつきつけられた。そのときに尽力してくれたのが、OCCUR(動くゲイとレズビアンの会)だ。彼らは、人権の部門に働きかけて、行政の後援があるのと同じということで借りられるようにロビー活動してくれたのだ。

いつからだったか、行政の後援がなくても、倍の使用料を払えば広場を利用できるという条件になったりもしたが、行政後援ありと同じ条件で開催できた。それらは彼らのおかげだった。

そして、2005年か2006年あたりにそのOCCURが担ってくれていた行政交渉の役割の仲立ちを、彼らの代わりにしてくれたのが、冒頭に名前を挙げた飯田さんだ。会場を使用するのにも様々な工夫が必要な時だった(今も苦労があるかもしれない)。

その後、彼女の2007年にパレードの実行委員長を務めた中田さんと飯田さんが尽力して東京都からも後援が得られた。また、当時厚労省にいた方の努力もあり、厚生労働省からも後援がとれた。それにより会場確保がより安定したと思う。一旦、後援がとれるとその後の継続は比較的楽になる。また、行政の後援がとれるとそのイベントの存在感は変化する。このときの、この方々が成し遂げたことが、現在にまで影響を与えている大きな功績だと思う。

話はそれるが、僕が最後に東京プライドの代表を務めた頃、以前に代々木公園の管理事務所にいたことがあるという人から、「そのパレードが開催されるときには、じゃんじゃん苦情の電話がかかってくるんですよ、『なんであんなものの開催を許すのか』って」という話を聞いた。

僕はその話を聞いて驚いた。それは、苦情があったことよりも、そんな話を借りる際のやりとりで一度も管理事務所の人たちから聞いたことがなかったからだ。人によってはイヤミを込めて、そのことを言う人がいてもおかしくなかったと思う。もしそれを言われていたら、こちらは嫌な気持ちになっだろう。そのことをおくびにも出さず、当たり前のように手続きを進めてくれた彼らにも感謝したい。


▼フロート問題

もう一つ、何度も困難な交渉が必要になったのが、各団の先頭に置くフロートと呼ばれるトラックだ。2000年に、なんとか各団の先頭に置くことはできるようになったものの、上にパフォーマーが載ったり、DJが乗って演奏することに、警視庁や所轄の警察は難色を示した。それは、道路交通法違反になりえるからだ。

2000年代前半、半裸の男性やドラァグクィーンが載ることについて警察が「公序良俗的にどうか」ということを言ったときには、当時の実行委員だった、今は亡き春日亮二(がんすけ)が「それは、ゲイの『文化』です。私たちの『文化』を否定するのですか!?」と押し切ったと聞いた(がんすけは、2000年以降のパレード継続に尽力したこと立役者でもある)

その後、2000年代後半に入り、警察の対応が厳しくなったときに、パレードの途中でフロートからパフォーマーが下ろされたこともあったし、落下防止措置をとれば…と認められたこともあった。正直、その時々の社会のムードや、担当者によっても異なる面もあるのがやっかいなところだ。


▼少しずつ…

しかし、その交渉の少し様子が変わったな、と感じた時があった。それは、僕が最後にパレードをやった2010年だった。その年も、やはりフロートについて問題になった。所轄の警察署が強く難色を示した。しかし、それまでちゃんと落下防止措置をとり、事故も無くやってきたこと、パレードそのものもこれまでしっかりとやってきたこと、そのことは過去の担当者に聞けばわかるはず、と主張したら、先方は納得せざるを得なかった。

それまでおこなってきた実績が後押ししてくれたと思った(自分にもそれだけ言える自信がついたということもあると思う)。

また、その年に、いろいろな理由で、会場の最終申請書の提出が遅れ間に合うかとヒヤヒヤする場面があったのだが、担当者は「いつもやってるやつですね」と、融通を利かせてあっさりと進めてくれた。そしてまた、これは、そのパレードの前の年の「フェスティバル」の時のことだったが、会場の舞台の担当者は、「いつも楽しみにしていますよ」と、無理な舞台設営準備に協力してくれた。


もちろん、パレードは、たくさんの実行委員とスポンサーとボランティアがいてできたこと。そして、さらにその背後にもにいろんな人がいろんな形で支え、協力し、実現してきた。私自身、そのことを忘れないでいたいと思う。もちろん、代表や実行委員長という計り知れない重荷を知っている者としては、その荷を背負った仲間たちへの思いも。


そして、これらの経験が教えてくれたのは、新しいことを実現するのに行政等の許可や協力が必要な場合、時に最初は引きながら実現しなければいけないということ。そして、少しずつ枠を広げたり、押し引きしながら、自分たちが実現したいことを実現していくということだ。行政職員の中にも、協力的な人たちがいる。その人たちといかに協働できるかも重要だと思う(それは、今の沖縄の活動の中でも実感している)。

いかにただの同化主義に終わらず、入り込んで協働して、もともとあった枠を広げて行くか、そこの社会を変えて行く鍵があるのだと思う。
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by hideki_sunagawa | 2013-10-05 11:54 | LGBT/gender