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2013年 01月 19日

GRADiでの催し

直前のお知らせですみません。下記の通り予定しています。近くにお住まいの関心のある方は、ぜひいらしてくださいませ。

▼辛淑玉さん/朝倉景樹さんの講演記録を観る会

11月に開催した講演会「多様な生き方の実現とコミュニティ活性化へ向
けて〜」のビデオを観て、参加者と感想を共有します。
日時:1月20日(日)15時〜18時(開場:14時半)
参加費:1000円(11月の講演に参加された方は茶菓代300円のみ)

▼連続講座:コミュニティリーダーに話を聞く

第2回「ジェンダーについて私が考えてきたこと」
講師:糸数貴子(おきなわCAPセンター事務局長)
日時:1月27日(日)15時〜17時(開場:14時半)
参加費:無料

いずれも場所はGRADiで、参加申込みは、gradi★me.comへ(★をアットマークに変えてください)。(定員に余裕があれば飛び込み参加可能です)

http://gradi.jp
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by hideki_sunagawa | 2013-01-19 00:10 | notice
2013年 01月 13日

同性愛と「好み」(2)

前回、「同性愛と『好み』」を書いた翌日、琉球大学の授業でゲストスピーカーとして話す機会があったので、この話題についても触れた。

ここに書いたことと同じようなことを、いろいろな例を挙げながら話をして、ほとんどの学生は理解してくれたのだが、終わってから、「『熟女好き』とかと並べられることの問題がわからない…」と質問に来た学生もいた(わからないままにせずに質問に来てくれたことに感謝!)。


そのとき、同じような説明を繰り返したのだけれど、後で、その学生がひっかかってるのは違うポイントだったかも、と思った。それは、例えば悩んでいる人がいたとしたら、その理由が同性愛だろうと、「熟女好き」だろうと、その悩みに順位をつけることはできず、同じようにサポートされるべきではないか、と思っているがゆえの「わからなさ」だったのではないかと。

理由に関係なく「悩み」というのはその人にとっては重大なことで、サポートを必要とする、ということには、僕ももちろん異論はない。どんな悩みに対してもサポートできるシステムは必要だし、そのために様々な電話相談、相談機関があるの。しかし…この問題はそういう話ではないのだ。


まず、件の教員の発言は、実際にそのような、様々な性を持つ人たちへの支援が必要と思っているわけではなく、むしろ揶揄しつつ、それと同性愛を並べることで、全てを揶揄している(と受け取られておかしくない)内容だ。実際にそういうことで悩んでいる人たちの悩める声を紹介しているわけでもないわけで。

そして何より根本的な問題は、そのような言い方で、社会構造的な問題を完全に相対化してしまうことだ。

この授業でも強調したのだが、ゲイやレズビアンの当事者の間では、「別にそのことは悩んでいないし、抑圧されていると感じない」という人は多い。しかし、臨床の現場にいる人や他のソーシャルワークにかかわる人からは、そうではない現実が見えてくるし、ネット上の調査でも、やはり精神的にダメージを受ける人の割合は多いと推測せざるを得ない。その矛盾は何を語っているか。

往々にして、社会的な構造の中で抑圧を受ける人たちは、その抑圧に慣れているため(その状態が当たり前と感じているため)、そのことを意識しない。しかし、気づかないうちに、少しずつそのことが負担になったり、小さな傷をたくさん受けていることがあるということだ。僕は、それを金属疲労に喩えている。

金属疲労は次のように説明される。「強度よりかなり小さい応力でも繰返し加えると破壊することがある。このような強度より小さい繰返し応力による破壊を疲労という」(引用元)。

それでも、仲間を見つけられたり、他のこと(家族関係、仕事のこと、経済的な問題等)が順調なら、そのことが下支えになって問題は起きないかもしれない。けれど、多くの人の人生はそんなにすべてが順調ではないわけで、他の問題が起きたときに、もともと気づかないうちに疲労していた心がポキっと折れることはあるだろう。そのとき、折れた直接的な原因は、他の問題なわけだが、マイノリティであるということが見えない理由として存在していたりする。


話は戻るが、確かに、色んな人がいろんな理由で悩み、場合によっては、その根本的な原因は大きな社会構造の問題にあると考えることもあると思う。そうならば(そして、もし余力があるなら)、そのことを社会に伝えたり、まわりに伝えて一緒に問題化していくことをする方法をとることが重要になってくる。そうやって、多くの人が様々な問題に取り組んでいるわけだ。

個々人の気持ちの問題は重要だが、それとともに、社会について、社会の問題について考え、それをふまえて自分がどのように社会にコミットしていくか思考し実践していく、という姿勢がもっとひろがっていくといいな…と今回のことから強く感じた。そして、今自分がやっていること/やりたいことは、そういう姿勢を広げていくことなんだなと改めて思った。
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by hideki_sunagawa | 2013-01-13 14:40 | LGBT/gender
2013年 01月 10日

同性愛と「好み」

ある大学で心理学を教えている教員が、神奈川県が同性愛者向けのサポート活動を民間団体と一緒にやっていることに対して、「次はロリコンか熟女マニアをサポートしなくちゃな」とツイートし、批判を受けて謝罪するということが起きた。

この議論の中で、謝罪した本人も批判した一部の人も、「指向と嗜好を混同」という表現だけで語ってしまったために、逆に「指向と嗜好は分けられるのか?」という疑問を経由して、やはり同性愛を「好み」全般とをごっちゃにした話に落ちつくということが起きているようだ。

この論の展開は、正直言って、あまりにもくだらない。

もともと、同性愛と「ロリコン」と「熟女マニア」が同じカテゴリーとして並列的に成立しないことがどうして理解できないのだろうか。同性愛は異性愛と並ぶカテゴリーだ。「ロリコン」「熟女マニア」(男性が対象となる場合は「中年男性orおやじマニア」?)は、ある意味では、その下にあるサブカテゴリーになる。

逆に言うと、同性愛/異性愛は、もっと大きなカテゴリーの話だ。そして、異性愛が制度化されていて、中心化され、圧倒的な規範として成立している構造を問題化するようになったのが、同性愛者のアクティビズムである(そのような問題化がおこなわれるようになったのは、もちろん社会の変化によるものであり「普遍的」なものではない、しかし、だからと言ってその動きを否定する理由にはならない)。

もし「熟女マニア」(中年男性マニア?)を認めよ、という運動が、<同性愛者のアクティビズムと同じレベルで>起こるとするなら、若者との恋愛や結婚しか世の中にはないかのように制度化され、中心となり、規範となっているような社会が想定されなければならない。

しかし、「熟女」「中年男性」でも異性であれば(そしてお互い独身であるか等の条件を満たせば)結婚はできる。しかし、どのような条件でも同性同士へ結婚できない。

ちなみに、「ロリコン」は性行為をめぐる同意という、さらに別の問題が生じるため、ここでは詳細には議論しない。しかし、異性の組み合わせでも同性の組み合わせでもあるのだから、やはりサブカテゴリーだ。


そして、現在私たちが生活している社会の中で、まず性別が極めて重要な属性となっている(その現実の善し悪しは別として)ということも重要だ。生まれるとすぐに性別が分類され登録される。その後、ずっと性別で区分され続ける。よって、どの性別を好きになるかが最も基本的な重要な問題になる。

それは幼いときから起こりがちだ。幼稚園生に「好きな子いるの?」と聞いたとき、同性の名前を挙げたとしたら、どういう反応が起こるだろうか。きっと、そのような発言に対し、「それっておかしい」と言う友達もいるだろう(実際にそういうことが起きたという話をよく聞く)。同性愛を肯定できない親は「この子大丈夫かしら…」と思うかもしれない。少なくとも、ドキッとする人は多いはずだ。

では、その子が、とても「熟女」「中年男性」と言えるような年齢の人の名前を挙げたとして、同性の子の名前があげられたときと同じくらいに、まわりの人はドキっとしたり、不安になったりするだろうか。ちょと変ね、と思うくらいだろう。そのことからわかるのは、「好き」という感情において、性別の組み合わせが第一の規範基準になっているということだ。


「同性愛と年齢軸の好みを区別するのは、同性愛者の運動による差異化」という主張で、いろんな「好み」をごっちゃにする結論に至る人の思考枠組みは、結局は、[まともな好み]対[変な好み(=同性愛・「ロリコン」・「熟女好き」etc...)]というものだ。

しかし、「まともな好み」というものは定義できず、それに対する[変な好み]も限定できない(正確に言うと、「変な好み」を名指しすることでしか「まともな好み」は成立しないが、その名指し対象は網羅されることはありえなく、また個々人によって大きく異なるため、このような対立軸は成立しない)。よって、この図式はおかしいのだが、そのことに気づかずに、その図式に基づいた議論(?)に悦に入ってる人が奇妙に見えてならない。

ーーーー
ちなみに、私は、<もともとは>「指向」というのは、どういう対象に恋愛や性行為の対象が向くかということと考えているが、その中で性別のみを「指向」と表現するのは、ここで書いたように、性別をめぐる問題が社会的に圧倒的な力を持っており、その状況が折り込まれているから、と解釈して肯定している。しかし、「指向だから」という説明だけで同性愛者への理解を求めることは素朴すぎる主張とも感じている。



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by hideki_sunagawa | 2013-01-10 01:21 | LGBT/gender
2013年 01月 02日

同性愛と笑い

昨年も多くの人に支えられて、こうして無事に年を越すことができました。今年もどうぞよろしくお願いします。今年は、本格的に沖縄でも大きなイベントを開催したいなぁ、と思っています。

さてさて、元旦にツイートしたものが大反響があったので、言葉を足して説明したほうがいいかな、と思い、このブログを書いています。

発端は、「芸能人 格付けチェック」という朝日放送系列で放送された番組。様々な、「一級品」「一流品」と呼ばれるものとそうではないものを見分けられるかを芸能人を対象にクイズ形式でおこなうもの。「お笑い」番組であり、いろんな意味で「馬鹿馬鹿しさ」を楽しむ番組だろう。

普段は観ない番組だが、ふとつけたらやっていたので、しばらくみていた。すると、ミニドラマをプロが演出したものと、芸人が演出したものを見分けるというものが始まった。内容は、男性芸人二人と男性役者一人が、同性愛の三角関係を演じている内容だった。

多少コミカルなストーリであるとしても、ある意味で、内容は「フツー」の三角関係。もし、異性愛を前提にした物語ならば、ステレオタイプ化した部分にクスっと笑うことがあっても、大して面白おかしいくないストーリーであった。

その二つの演出を見比べているシーンが映されたのは、最初にトライした4人と司会の3人だけだったが、その大部分の反応は、男性同士のラブシーンを気持ち悪がり、おかしがるものだった。しかし、小池徹平さんは、もし男女ものだったら大方の人はこういう反応をするだろうというニュートラルな、演出を見極めようとする姿勢を見せる態度だった。

僕は、他の人の笑う姿を攻撃つもりはなかったので(間接的に批判していことにはなるのだが)、次のようにツイートした。

ーーー
「格付け」なるTV番組で、演出を見分けるかという題材に、同性愛を扱ったミニドラマ。プロと素人の演出が見分けられるかというものだが、多くの芸能人が男同士のラブシーンに笑う。小池徹平さんは真剣な顔。仮に「一流か否か」という判断をするなら、こういう姿勢をとれるか否かだろう。
ーーー

こういうことを書くと、よくある反応の一つに、コミカルなものとしてお笑い芸人も出ているのだから、笑うものだし、そうしないと、ある意味で芸人には失礼ではないか、というものだ。

よく、お笑い芸人が、家族にその道に進むことを「人に笑われる仕事なんて!」と言われたという苦労話があるが、それへの反論して耳にするのは「人に笑われる仕事ではなく、笑わせる仕事」というものだ。確かに。

では、先のドラマはどうだろか。実際に、「笑わせた」のは出演した人だろう、しかし、そこに「笑われた」ものも存在している。それは同性愛(者)であり、同性間のラブシーンだ。

同性愛者であること、同性間のラブシーンが、<それだけで>笑われるものになるという、よくあるパターンだ。<それだけで>が重要だ。ストーリーによっては、同性愛者/関係が登場しても、そのことそのものが笑いにならないものが考えられうるだろう。

もちろん、このことと、自分をゲイと意識している人が笑って楽しむということは別の問題だ(よく、この当事者性を議論の根拠にする人がいるけれど、「当事者」にいろいろな人がいるのは当たり前のことで、僕はその個々人の態度や捉え方と、社会の中での位置づけの問題を区別している)。


こういうことを言うとき、もう一つよく言われることがある。それは、こういうものを笑いにする方が、マイノリティの社会的受容にもいいのではないか、というものだ。そして、その例として、身体に「障がい」がある(とされる)人が、自分のその「障がい」を笑いに変えるというものが挙げられる。これ自体も当事者間でも議論があるし、僕も好むものではないけれど、それを肯定する論理もわかる(実践している人がそのような論理を意識しているかどうかさておき)。

なぜなら、「障がい」のある人は、おうおうにして「不幸」「かわいそう」「かなしい」というイメージがつけられることが圧倒的に多いからだ、それに抵抗する形の一つが笑いになる。そして、それをやっているのが、「当事者」であるということにも意味がある。


しかし、先のミニドラマは、演じているのはお笑いの芸人(と、バラエティにもよく出る役者)であり、とりあえず「当事者」として意識されている人ではない。そして、同性愛をめぐる社会の支配的な位置づけは、もともと「笑い」「嘲笑」である。その中で、「笑い」の対象として再生産することとと、「障がい」を笑いの中に折り込んでいくこととは、全く構造も意味も違う。


また、これを女性のお笑い芸人がやることでもコミカルにすることもできただろう。だいたいそういう場合も、女性の見た目を基準にしたものなので、僕は好まないし、それもジェンダーの社会構造的に考えることができるが、女性のお笑い芸人が演じてコミカルにすることと、先のドラマには決定的な違いがある。

それは、女性の芸人が演じた場合には、異性愛関係における一つのあり方、あるいはその人そのもののキャラが笑いにされるのに対して、このミニドラマでは(そして、テレビではよくあることだが)「同性愛」「同性のラブシーン」そのものが笑われていたということだ。


それと似た意味で、「オネェキャラ」と呼ばれる人たちが、基本的にお笑いの文脈で登場してくることと、先のドラマの意味も違う。その人たちは、そういうカテゴリーで見られながらも、基本的にはそれぞれのキャラクターで登場しているのだから。僕は、そのようなタイプの人しかゲイが顕在化しないマスメディア自体には批判的だけれど(あと、時にその「使い方」にも)、その一人一人に対してはそうではないし、応援したいと思っている人も少なからずいる。


最後に、先のツイートでは、「そんなふうにお笑いにして」とか「気持ち悪がって笑ってたいた芸人、最悪」のような言い方をしていないことは強調したい。もちろん、そういう風に言う人がいてもいいと思うし、僕も我慢ならないと思ったときはそのような言い方をするだろう。

けれど、できるだけ、自分が、こういうあり方、態度、人いいな、ということを広めることを優先していきたいと思っている。今回は、あまりにも反響が大きかったので、その言葉の意味について説明を足した。
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by hideki_sunagawa | 2013-01-02 13:28 | LGBT/gender