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2011年 04月 22日

引っ越して1週間

<沖縄から帰って来て1週間後に書いた日記、間違って非公開になっていました…とほほ>

先週の金曜日に沖縄に引っ越してから、ちょうど一週間になる。

「実感わかないなぁ…」と思いつつ東京を発ったが、今も変わらず…。もちろん、新しい部屋に越したこと、沖縄にいることは実感しているが、ここに、基本的にはずっと住み続ける予定であること、東京から1500kmも離れたところにいて、簡単には東京の友人たちに会えないこと、がピンとこない。

東京の友人たちに連絡すれば、また同じようにすぐに会えるような、そんな感覚が抜けない。もちろん、遠くなったとはいえ、飛行機で2時間半くらい移動すれば会えるわけだけれど、お金に余裕があるわけでもないし、現実的には難しいことだ。

それに、東京に住んでいる間に、父親とすぐ上の姉を亡くした僕は、その距離の意味を知っている。病床にいても簡単に見舞いに行けない距離であり、危篤の知らせを受けても、間に合わないことも多い距離だ(夜に知らせを受けると翌朝まで移動は不可能)。

まぁ、しかし、同じ東京にいても、なかなか見舞いに行けなかったり、訃報を後になって知るということはしょっちゅうあったのだから、同じなのかもしれないけれど…。


東京でも多くの友人に支えられたけれど、沖縄に引っ越してからも、早速友人たちに助けられている。掃除を手伝ってもらったり、車のない(&ペーパードライバーの)僕のために、大きなものを買いに行くのにつきあってもらったり。ガスコンロが予想以上に値段が高くて、「困ったなぁ…」と思っていたけれど、友人たちが引っ越し祝いにとお金を集めて買ってくれた(炊飯器も!)。

そして何より、その友人たちと会うと、「沖縄でも大丈夫」という気持ちになれる。というより、その出会いが先にあったから、「沖縄に越しても大丈夫」と決心できたのだけれど…。


とはいえ、東京での大切な友人たち、支えてくれた恩人のことも決して忘れはしない。その人たちに沖縄に来てもらって、充電してもらいたい、というのが沖縄に引っ越す動機の一つだったのだから(そのためには生活の基盤を早くつくらなくちゃ)。

東京を離れる前日、シューレ大学の学生さんたちと話をする機会があった。僕の大好きな場所と人たち。沖縄に帰る動機の一つとして、僕は、「東京で活動していても砂漠に水をまくようで、手応えを感じられない。地方だと、悪い反応も含めて、やった結果が見えやすい」という話をした。

それに対して、学生の一人から、「東京で砂川さんに影響を受けた人はたくさんいるだろうし、大切な存在と思っている人もいる。そして、そう思っている人に砂川さん自身も力をもらってきたはず。でも、どうしてそういう風に思うのでしょうね」というような質問を受けた。

僕は、その言葉を受けて、胸がつまって涙がこぼれた(泣き虫だからねぇ…苦笑)。

僕自身は、その質問に十分に答え切れず、その代わり、シューレ大学のスタッフの方〜僕にとって大事な理解者の一人〜が、自分でもうまく言葉にできていなかった思いを整理して説明してくれた。その説明はとても的確で、そうやって、僕のことを理解してくれる人もいるのになぁ…とも思った。

時間をかけて、その時彼が説明してくれた内容も含めて、僕が沖縄に帰ろうと思った理由をもう少しちゃんと説明したいなと思っている。


そんなこんなことを考えつつも、順調に沖縄での生活はスタートしています。問題は、仕事と経済的な面…。これを考えるとブルーになるけれど、当分は「なんくるないさー(なんとかなるさー)」と思って、でも、準備していきたいと思います。
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by Hideki_Sunagawa | 2011-04-22 09:40 | Diary
2011年 04月 08日

あと一週間

東京を離れるまであと1週間となった。引っ越しの準備と、いろいろな引き継ぎや年度末までの仕事のまとめ等々、いろんなことに追われている。

ふと、21年の東京生活(山梨の日々を足すと24年の「本土」生活)を振り返ることもあるが、じっくり考えると悲しみの沼に足を取られてしまいそうなので、すぐに忙しい日々へと意識を向き直すようにしている。

でも、そろそろ、あれこれ書き記したほうがいいかな、とも思い始めている…


沖縄には、「帰る」というイメージだが、東京も、僕にとって「帰る」場所。

東京で僕は解放されたし、新しい世界を知ったし、成長もした。強くなった。たくさんのチャレンジをした、チャレンジを突きつけられた。その中で、いろんな人に支えられ、いろんな人と絆を結んだ。その絆は、沖縄へ帰っても消えはしない。

振り返ると、いろんなことをやってきたなぁ…と思う。

1990年からHIVの民間活動に参加。当時のHIV活動をめぐる状況を知っている人は少ないだろう。僕が当時参加していた団体では、ゲイも血友病者も一緒に活動をしていた。しかし当時、HIVに関わる人は極めて少なく、片手で数えられるほどだった。

1991年には、「メモリアルキルト展」の東京開催に取り組んだ。当時、AIDSは死と隣り合っている病気だった。米国では、亡くなった患者の思い出の品などを縫い込んだメモリアルキルトがつくられ、展示されたりしていた。それは、亡くなった人も、ひとりひとりが名を持ち、それぞれの人生を生きた存在という主張でもあったのだ。

それらのキルトを日本に持って来て展示しようという企画で、日本で亡くなった患者のためのキルトもつくられた(それらは、米国のものとは違ってイニシャルだけだった)。全国各地で開催された展示だったのだが、東京の代表者が途中で体調を崩したため、後半は僕が代表になることになったのだった。

今考えると、そんなに代表らしい役割を果たしたわけではなかったが、それでも、24歳の僕には大変な役割だった。

その後、「ぷれいす東京」ができるときにその設立に参加。しばらくして事務局長となった。その頃から、AIDS NGOと行政との恊働が盛んになり、厚生労働省(当時:厚生省)の研究班にもNGOが参加するようになっていった。

後に「VOICE」という名前で定着するHIV啓発イベントを始めたのも、その頃だ(最初の回は、僕が名付けたベタな「お楽しみ演芸会」という名前だった<苦笑)。ゲイの間でもHIVの関心がとても薄い中、どうやったら、「コミュニティ」でこの問題が共有できるか…と考えた上での発案だった。


そして、30歳になって大学院に入学。HIVの問題に取り組んで行く上で、アカデミックな視点が必要と思い始めたことが大きい。しかし、それ以上のものを大学院では得たと思う(それは、またいつか機会があったら改めて書きたい)。

東京でパレードを復活させるための実行委員長となることを発表したのは、博士課程に入った最初の年。その翌年に「東京レズビアン&ゲイ・パレード2000」を開催した。それからの10年は、パレードに人生の多くを費やすことになった…

2000年のパレードを復活させたときも、2005年にその母体団体となる「東京プライド」をつくったときも、2008年から2年をかけて「東京プライド」を再建したときも、大変だった…。

特に最後の二年は、それを遂行するために自分の多くの時間とお金を費やすことになった。正直、それが沖縄に帰る時期を数年早めたという印象はある。また、そのぶん業績を重ねる努力ができず、大学での常勤職を得られない原因の一つになったかな…とも。

しかし、いつ頃からか持っていた「『ゲイコミュニティ』の中で一角の人間になりたい」という、漠然とした目標は達成できたと思う。

また、編者として2007年に出版した『カミングアウト・レターズ』(太郎次郎社エディタス)も、大きな仕事となった。それが、NHK「ハートをつなごう」で「レズビアン/ゲイ特集」の一つのきっかけになったこともうれしかった。その流れに、2009年の「東京プライドフェスティバル」の「ハートをつなごう公開録画」の実現がある。

僕が東京で手がけた最後の大イベント「第7回東京プライドパレード」では、ミュージカル「RENT」のキャストにSeasons of Loveを歌ってもらえたし、中西圭三さんのライブも実現できたし…。


こうやって振り返ると、いろんなことがあった21年だなぁ…(当たり前だけど)。でも、こうして活動と研究を続けられたのは、いつも書いているけど、本当に僕を支えて来てくれた人たちのおかげだ。僕は常に、そんなみんなの思いの結節点にすぎないような感覚を持っている。

沖縄でも、いろんな人の思いの結節点となって動いて行くのだろう。僕は、東京での経験や活動をリセットして沖縄に行く、とは思っていない。沖縄でこの経験や活動を更新するというイメージだ。不安に押しつぶされそうになることもあるけれど、きっと大丈夫。東京にも沖縄にも(そして、海外にも!)、たくさんの仲間がいるのだから。
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by Hideki_Sunagawa | 2011-04-08 03:59 | Diary