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カテゴリ:Diary( 160 )


2012年 04月 07日

東京滞在記5(完)

東京に住んでいる間は、沖縄に長期滞在すると、東京に住んでいるのが幻のよう…といつも感じていたが、沖縄に住むようになると、全く逆の感覚になる。

幼い頃に4年間ほど尼崎市に住んでいたので、沖縄を一旦離れる前の沖縄居住歴は16年間。山梨の大学に入ったことで、3年間山梨県都留市に住むことになり、大学4年生の頃に東京へ引っ越し。そして、東京に21年間住んだ。そう考えると、長さで言えば、東京に住んでいた期間が一番長いことになる。

もちろん、幼い頃の方が周りからの影響を受けやすいので、単純に年数では比較できないけれど、ゲイとして自己受容をし、関係性を築いたのは沖縄を離れてからなので、東京の影響も大きい。

そういう自分は、山梨や東京にいる間、まわりの景観だけでなく、コミュニケーションの取り方や関係性の築き方もだいぶ違うなぁ、と感じていた。でも、沖縄の中にいても、自分が内面化した異なるあり方を強く感じる(両親が宮古島出身ということも関係しているだろう)。

どこにいても、異なりを感じる、その感覚は、文化人類学という学問分野に身を置いて以降、一層意識するようになった。それは、往々にして、寂しさや痛みのようなものを感じさせるが、観察したり、思考を深める上では重要なものとなっている。


東京にいる間も、改めて、人々の表情、振る舞い、コミュニケーションの取り方が、自分が馴染み戻りつつある那覇のそれとは違うなぁ、と感じた。もちろん、すぐに東京の雰囲気にも馴染むのだけれど。

引っ越してから、東京に滞在するのは三度目だった。最初は、移行期間みたいなもので、「のりしろ」だな、と思っていたけれど、それともまた違うのかもしれない。二つの位置を行き来する往復運動のような感じ…うまい喩えは見つからないけど。

いずれにせよ、この二つの故郷を持つことができたことは、僕にとって豊かな思考的な実りをもたらすものであることは言うまでもない。最近は、どん欲さを増して、海外にも出たいなと思ったりする(あまりにも色々な障壁があって、難しいけれど)。

って、あまり東京滞在記的な文章ではなかったけれど、なんとなくまとめとして。
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by hideki_sunagawa | 2012-04-07 12:43 | Diary
2012年 04月 06日

東京滞在記4

帰る前日、東京プライド主催の「ウェルカムデー」という、パレードに向けての説明会&ワークショップがあったので、最初の30分だけ参加した。

僕の後に代表になった門戸大輔(もんこだいすけ)さんから、「挨拶しますか?」と言われたけれど、僕がしゃしゃり出る場でもないな、と思って断った。

参加者は20名くらい。門戸さんが、最初の挨拶で、「震災後、パレードをやる意味について悩みましたが、僕たちに出来ることが二つあると考えました。一つは、人と人をつなぐこと、もう一つは、未来を見せること」と語ったとき、僕は涙しそうになった。


僕が任期を終える頃から、東京プライドは混乱した。僕のやってきたこと、やり方に反発した人たちが、僕の後の東京プライドを自分たちのものにしようと、あれこれ動いたからだ(「自分のものたちに」というのは、もちろん、僕の立場からはそのようなモティベーションで動いているとしか見えなかったということ)。結果、その人たちが推した代表候補者が総会での選挙に負け、その人たちが東京プライドを出て新しい団体をつくることになった。

正直言って、この過程自体は様々な団体の中で(企業の中でも)よくあること。しかし、LGBTのコミュニティは、こういうことを面白おかしく語ったり、過剰にネガティブに見たりするきらいがある。二つの団体ができたという、それだけのことなのに、パレードそのもの、活動そのものを避けるようになる。


そして、新しい団体をつくった人たちは、東京プライドについてネガティブキャンペーン的な噂を流してダメージをあたえた。「LGBTコミュニティー」(?)は、そういうネガティブキャンペーンが好きらしい。これまで東京プライドが築いてきたことを全く見ずに、すぐにそういう言葉に飛びつく。そんな中、門戸さんはがんばってここまでやってきたのだ。

ちなみに、東京プライドを出て新しい団体をつくった人たちは、パレード開催(今月末頃にあるらしい)の前に辞めてしまい、今は、その後を継いだ人がやっているという。しかし、そうやって騒いで出て行って、しかし結局最後までやり切らずに辞めるような人たちの言葉を信じて、それまで活動を積み重ねて来た東京プライドを応援しなくなる人たちも少なくなかった。そういう中、東京プライドを継続させながらがんばり続けるのは実に大変なことだ。

その中で、文字通り身を削って奮闘している彼が語る言葉だからこそ、胸に響く。

正直、そういう背景を経て開催する今年のパレード(8月11日開催予定)は、まだいくつもの困難を乗り越えなくてはならない。でも、彼ならやってくれるだろうと信じてる。しかし、もしも開催を前に、断念することがあったとしても、僕はここまでがんばってきた彼に拍手を送りたい。


今は、彼が彼自身の言葉で、東京プライドパレードに向けて旗を振り呼び掛けている。僕は、自分が東京でがんばったものが一つ継がれたのを見て、ほっとした。


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by hideki_sunagawa | 2012-04-06 21:40 | Diary
2012年 04月 05日

東京滞在記3

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憧れの田辺繁治先生との握手に力づけられた翌日、東大で非常勤で教えているときの「教え子」でもあるゲイの学生とお茶を。

彼は大学院への進学が決まっているので、その研究テーマについての話など。また、彼が米国に留学しているときの体験を聞くのも面白かった。

一応、立場的には「(元)教え子」なのだが、僕自身、彼から学ぶことも多い。

進む分野が僕とはだいぶ違うし、同じく自身を「ゲイ」と意識する者とはいえ、きっと立ち位置はかなり異なるだろう。

でも、理論先行型ではないところに強い共感を覚え、関心を持った。今後に期待。

僕は、なにかにつけ勉強&研究不足なので、若く有望な研究者と話しをすると恥ずかしくなるのだが、大きな刺激も受ける。おかげで、少しずつでも勉強も研究も続けよう、と思った。

別れ際に握手。前日には、文化人類学者として大先輩となる田辺先生と握手し、翌日には、若いゲイの研究者(の卵)と握手。僕は、学問の分野では、まだまだ十分に何もできていないけれど、ちょっとは何かを継ぐ者として存在しているのかな、と感じた。

そんな風に、沖縄に引っ越して以降の東京滞在は、自分を振り返り、確認する旅になるなぁ…と思いつつ過ごす東京滞在となった。(たぶん、まだ続く…苦笑)
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by hideki_sunagawa | 2012-04-05 13:19 | Diary
2012年 04月 04日

東京滞在記2

3月30日に、今回の投稿滞在の主要な目的である指導教官の退職記念セミナー&パーティーに出席(セミナーの方は、パートナーも一緒に)。

セミナーのタイトルは「人類学を学ぶ」。

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船曳先生がアカデミックなキャリアを積む中で交流のあった人たち(フランスの神話学者であるジョルジュ・デュメジルや、哲学者ミッシェル・フーコーも含まれる)の話や、若き頃のフィールドワークの話をされた。

そしてその後、現在執筆されている、制度を巡る人類学的な考察の論文の一部を発表され、ゲストのコメントと質問に応答するという形だった。


制度を巡る論文は、三者関係というものを一つの軸としていて、これは僕の博論とテーマが重なっているのだが、抽象化し、論理として突き詰めるレベルが、僕とは比べようもないくらい高く(当然なのだけれど)、大きな知的刺激を受けた。

この論文は、だいぶ「理論的」な印象を受けるが、船曳先生は、基本的に「理論には興味ない(論理には興味があるが)」とおっしゃっていて、フィールドワークによるfactsは強いし、いつまでも残ると強調されていたことが印象に残った(もちろん、記述の質によるわけだが)。僕は、その学問的志向を先生と共有してきたなぁ…と実感。


また、セミナーやパーティーで、大学院時代をともに過ごした「学友」や先生方と会えて、一気に院時代に戻ったような感覚に包まれたことが、とても印象に残った。今、沖縄に住んでいるのが幻のようにも感じる、不思議な時間の流れ…。

文化人類学界のビッグネームな方々もたくさんいらしていて、緊張した。特に、僕が以前より尊敬し、その書かれたものに影響を受けてきた(しかし、お会いしたことがなかった)田辺繁治先生にご挨拶する時は、超緊張。でも、握手していただけたことは、大きな励みとなった。


このセミナー&パーティーへの出席と、その翌日会った若いゲイの研究者(の卵)との歓談は、最近すっかり失いかけていた研究へのモティベーションを高めてくれた。その話は、また次回に(というわけで、続く)。
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by hideki_sunagawa | 2012-04-04 20:21 | Diary
2012年 04月 03日

東京滞在記1

3月29日〜4月2日まで、東京に滞在していました。3月30日に、大学院時代の指導教官、船曳建夫先生の退官記念セミナー&パーティーがあったので、参加せねば、ということで上京。せっかく上京するなら…ということで、相方や友人たちと会ってきました。


a0137527_20543677.jpg東京に住んでいる間、頻繁に行っていた新宿御苑へ。

例年ならソメイヨシノが満開の時期。

なので、上京スケジュールが決まったときは、「花見ができるかな?」と思っていたけれど…残念ながら、今年は花の季節がだいぶ遅い感じ。

新宿御苑では、早咲きの桜がようやく咲いているという程度。いつもなら2月がピークの梅がまだ残っていてびっくり、でした。とりあえず、東海桜とパチリ。


a0137527_21194293.jpgセミナーとパーティーが開かれる東大の駒場キャンパスへ。

ここには、結構古い建物が残っていて(本郷キャンパスほどではないけれど)、久しぶりに訪れると、この雰囲気いいなぁ…と思う。

よく考えたら、大学院にいる間と、博論終了後の二年間非常勤講師として勤めたので、実は、かなり長い期間お世話になったキャンパスだ。

でも、学部は違う大学(都留文科大)だったので、ずっと東大に対して帰属感覚がなかった。けれど、遠く離れると懐かしく感じるせいか、自分の一部になっていることを感じる。

船曳先生の退官記念セミナー&パーティーに出席して、一層そのことを強く感じた。その辺りの話は、次回に。


駒場キャンパスは意外と緑も多く、人が少ないときに歩くとほっとします。大きな山椿の木が花をつけていました(いまいち大きさが分かりにくい画像だけれど…苦笑)。

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by hideki_sunagawa | 2012-04-03 21:33 | Diary
2012年 03月 09日

つらつらと思い出す

今月に入ったころから、テレビで、昨年の3月11日を振り返る特集が増えている。僕も、「あれから一年か…」と、当時のことを思い出すことが多くなった。

しかし、その頃もそうであったように、今もなお、とても複雑にからんだ気持ちや思考に整理をつけることはできない。


東京での揺れやそれに伴う経験は、凄まじい被害を受けた地域とは比べられない。それは、その地域に比べればあまりにも被害が軽く、ゆえに比べるの自体どうなのだろうという思いをもたらすからだ。

その思いが、東京でのあの時の経験を語りにくくしている。ものすごい数の人たちが、大きな不安を抱えながらも、妙に落ち着いた振る舞いで、何時間も歩いて家に帰ったり、街中で寝て過ごした。

僕も中心部から住宅地へ向かう流れの中にいた。揺れた時に開催されていた報告会が、予定通り夕方まで続き、その後、夜まで会議があったため(なんということ!)、家に向かい始めたのは夜だった。まだ寒く、妙な緊張感と不安ながら、一緒に報告会に出ていたパートナーと友人と延々と歩いた。

あの時は、初めての経験ながら、「こういう時はこんなものだろう」と言い聞かせていたけれど、今から振り返ると、胸が少し苦しくなるのはどうしてだろう?


数日間、東京では基軸とも言える電車も十分に動かず、最初の頃はそれなりにあった食べ物も日が経つれて不足気味になった。電気の節約もあいまって、東京全体が暗い雰囲気に包まれていた。地震が裂け目を入れたのは、大地だけでなく、空間であり、人々の気持ちであり…そんな気がした。

原発事故によって飛散した放射性物質に関して、様々な情報が流れ、心配する人とそうではない人との間で微妙な対立感がうまれた(それは今も続いている)。原発に近い人ならまだしも、東京の人が心配するなんて、という言葉を付随させる人も少なからずいた(いる)。

東京で一番放射性物質が降ったと<後から>報告された、その日、その時間、僕はたまたま仕事で外を歩いていた。それがどの程度影響するものかどうかわらかないけど、正直、心のどこかに「あーあ、なんでまたあの時に…」という気持ちが残っている。


原発に関しては、もともと東京で使う電力のためにつくられたものなのであり、東京のエゴの結果として語る言葉も(今もそうだが)多く聞かれた。その批判は、全くその通りだ。しかし、その構造を生んだ(生んでいる)のは、東京に住んでいる人たちだけの心性だけではない、という思いも僕の中にはあった。

都市化、効率のよい経済体制、国全体が経済的に「成長」することを望む心性、そういうものの延長線上に東京があるのは確かだからだ。そして、それを強く推進人と、それを批判する人は、東京(や大都市)に住む人と、地方に住む人に分かれるわけでもない。


東京あたりで地震を経験した人は、その揺れによって、その震災の片鱗に触れたという感覚がもたらされ、それにより、震災の映像の延長線上に(その遠い端に、とはいえ)自分たちがいたこと、いるこを痛感させられた。

延長線上にいたというその感覚が土台となって、沖縄に住んでいる友人たちとの震災を巡る感覚の大きな違いとなっていることを僕は強く感じていた。「映像に映し出していたような被害に合わなかった」という意味では同じはずなのに。

僕は、言語化しづらいその震災感の違い、共有できなさに、ずっと戸惑いを感じていた。そして、それは逆の側の共有できなさを照射することになる。やはり被害が絶大だった地域と、大きな揺れを経験してもそうではなかった地域の人とでは(と言っても、被害の程度は常にグラデーションなのだが)、どんなに想像をしても近づけない、共有できないものがあるということを突きつけられるからだ。

その両側とも共有できないという分断感が、常にひりひりとした痛みとなって抱え込まれている。だからこそ、国家の枠で一体感を強調する語り、表象には、一層苦々しい思いが残る。


また、この震災の経験は、「次は東京か」という思いを強め(だから、そのような報道も増えているのだろう)、一層大きくなった不安を背負わされることになった。そんな中、僕は東京を離れることになった(前々から決めていたことなのだけれど)。

だからこそ、東京を離れることへ妙な罪悪感みたいなものがあった。今も、複雑な心境だ。もはや、東京も僕にとっては故郷なのだから。

また、その後の、被災地の状況も、原発をめぐる事柄も、考えれば考えるほど暗い気持ちになってしまう。

一年経ったからといって、問題が解決したわけでもなければ、僕自身の気持ちも整理がついたわけでもない。いや、整理はつかないだろう。今は、整理がつかないまま、吐露することに意味があるような気がしている。
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by hideki_sunagawa | 2012-03-09 05:13 | Diary
2012年 03月 07日

他人の力が必要な理由

ここ数年、年老いた母は、家で鬱々と過ごすことが多く、次第に調子も悪くなっていた。いろいろな理由があるけれど、ここ数年病気がちなことが最大の理由。そのため歩くことが減り、足腰がかなり弱り、さらに病気がちになり…という悪循環になっていた。

ことある度に、少しでも(家の中ででも)歩いた方がいいと強く言っては来たのだが、なかなか子たちの言うことは聞かず…。しかし、先週の父親の13回忌に来ていた親戚(80歳の女性)が、うちに泊まった時に、一緒に出かけ、かなりの距離を歩き、それをきっかけに元気になったという。

たった2−3日のことだったのに、家で立ち上がったり歩いたりする姿もだいぶ変わり、表情も見違えるように明るくなった。


その変化を見て、「だからあんなに歩くことの大事さを言ったのに…」という思いと、「無理にでも、一緒に出歩くようにすれば良かったんだよね」という反省する気持ちとが去来。

しかし、母親の性格を考えると、僕や姉が無理に連れて出歩こうとしても、きっと簡単には応じなかっただろうなと予測がつくし、歩いている間も、すぐに不満が出たりして、お互いいい気分ではなかったのではないか…と思う。

親子という近い関係では、ついついお互い甘えが出がちで、衝突を生みやすい。今回のことは、「やはり、少し距離感のある人が介在することが重要だなぁ」と改めて認識するきっけとなった。


また、来ていた親戚は、冗談を良く言う、とても明るく前向きな人。その性質も良かったのだろうと思う。それは、僕の家族にはない特徴だ。家庭の中で生じがちな問題は、家族が共有している性質を土台としていることも多い。

だから、それを共有していない人が入ることが重要になるのだろう。しかしまた、あまりにも全てを共有していない人だと難しい面もある。今回は、親戚であり、彼女が那覇に住んでいた頃によく世話になったということが功を奏したようだ。


おそらく、このことは、家庭だけでなく、様々な集団やコミュニティにも言えることなのだろう。時に、違う視点、違う性質からのアプローチが、行き詰まりを突破させる力となる。

しかしそれは、逆に言うと、その集団やコミュニティの既存の体制や構造、あるいは構成員の心性をも変えてしまう可能性もあるということだ。だからこそ、集団にとっての他人(つまり他者)を恐れ、排除しようとする動きが生まれて来るのだろう。

そして皮肉なことに、行き詰まれば行き詰まるほど、同質なもので集まり排外的になっていく。その方向性に、救いはない。

…自分の家族の経験から、そんなことを考えた。少し、話を膨らませすぎたかな?
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by hideki_sunagawa | 2012-03-07 05:23 | Diary
2012年 02月 29日

閏日(うるうび)

今日は父親の13回忌。

つまり、父が亡くなったのは、2000年。パレードの復活へ向けて大変な思いをしている時だった。

秋から入院していた父親を見舞うために帰郷しようと思いつつ、パレードの準備やら何やらでなかなか帰れず、ようやく2月に一旦帰る日を決めたものの、年度末が近づく中、HIV疫学研究班の報告会が入ったりして先延ばしに。それがゆえに、最期を見送れないままになってしまった。

容態が急変した時に側にいた叔母から「最期に、指で『ひでき』と何度も書いていた…」と聞いたときには、胸がつぶれそうだった…。


そしてまた、今日は、2005年に亡くなった姉の誕生日でもある。彼女は、4年に一回しかまわってこない閏日に父親が亡くなったことに苦しんでいた。

三つ年上だった彼女の年を、今の自分はとっくに越えている。なんだか不思議な気がする。


今日は、いろんなことを思い出したり、考えたりする一日になりそうだ…。
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by hideki_sunagawa | 2012-02-29 05:51 | Diary
2012年 02月 23日

東京からの来客

a0137527_18424775.jpg先週から今週にかけて、東京から、パートナーや友人カップルが相次いで来沖。

パートナーとは、のんびり家で過ごす時間がほとんど。右の写真は、高校時代よく通った喫茶店に行ったときのもの。

懐かしい〜という表情で撮影(笑)。



ちょうど入れ替わりで来た友人カップルとは、首里城周辺&金城町の石畳、美ら海水族館、佐喜眞美術館、県立美術館、平和祈念資料館をまわった。

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僕も練習がてらレンタカーを運転するはずだったが、結局、水族館の帰りと、平和祈念資料館の帰りにそれぞれ20分くらい運転しただけ。

でも、前回の練習よりだいぶ慣れてきた感じ。少しずつ進歩しているはず…。

今回、沖縄へ来てくれた二人には、東京での生活で本当に支えられた。どんなに感謝しても感謝しきれない。

多忙な二人だが、こうして時間をつくってきてもらえたこともうれしかった。次回は、僕が運転して案内できるようになっていなくちゃ。
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by hideki_sunagawa | 2012-02-23 18:46 | Diary
2012年 02月 03日

まだまだ大丈夫

a0137527_1382951.jpgローな日記をアップした一昨日の午後、友達がドライブがてら海が見えるカフェへ連れて行ってくれた。

僕からお茶に誘ったところ、ちょうど声をかけようかと思ってたと。

晴れて気持ちの良い暖かい日。西に傾いた太陽が海面に反射してきれい。海の音はやはり落ち着く。沖縄での海との距離感、やっぱりいいなぁ。

落ち込み気味な日記を読んで心配してくれたのねー、と思った。

別の友人も、後日「食事しに来ませんか」と誘ってくれた(こちらは、時間の都合上、お断りすることになったけど)。ありがたいことだ。

たぶん、しばらく、あれやこれや考えて、気持ちはすっきりしないかもしれないけれど、こうして身近に会え人がいるうちはまだまだ大丈夫な気がする。
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by hideki_sunagawa | 2012-02-03 06:19 | Diary