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カテゴリ:Diary( 160 )


2014年 04月 10日

寄り添う言葉

前回に引き続き、言葉をめぐって。

今日、琉球新報で新しく始まる「私の鑑(かがみ) ぬくもり便」というコーナーのためのインタビューを受けた。「人生の転機となった場面で受けた温かい助言や指導を振り返ってもらう」というものらしい。

事前に電話で取材依頼を受けたときに「人生を変えた、とか、大きな影響のあった言葉ってありますか?」というようなことを聞かれ、「考えればあると思います」と言って受けた。しかし、取材の前日に改めて考えをめぐらしてみると、記事化するのにふさわしいものがあまり思い浮かばないことに気づき、焦った。

一つ思い出したのは、中学生のときに親友に初めてカムアウトしたときのこと。自分が男性が好きであるということを伝えたとき、彼は「いいんじゃないかなー」と言った。その言葉は淡々としていたけれど、いつも淡々としている人だったので、同じ調子で言われたことにほっとした記憶がある。

それがもし否定的な言葉だったらどうだっただろうか?と思う。最初のカムアウトにつらい言葉を返されていたとしたら、僕の自己受容はもっと時間がかかったかもしれない。

しかし、この言葉はちょっと紙面化しづらいこともあり、記事には、大学院に入る面接試験のときに、後に指導教官になる先生から言われたときのことが掲載されることになった(これは、掲載されてからまた報告を)。


そして、この取材のために自分のこれまでを振り返って、自分がつらいとき、悲しいとき、苦しいときの時のことを思い出してみた。一人で煩悶し泣き叫んだこともたくさんあったし、夜に、大きな国道にかかる歩道橋から行き交う車をしばらく見つめていたときもあった。

しかし、それ以上に、つらいときに誰かがいてくれたことをたくさん思い出した。実際にそばにいて、手を握ってくれた人もいたし、ただそこにいてくれた人もいるし、電話ごしに話を聞いてくれた人もいる。そのときの言葉は、「そうか…」「そうなんだ…」「それはつらいね…」というシンプルなものだったりする。

意外と人生を大きく支えてくれたり、変えてくれたりするものはそういう言葉が多いのかもしれない。そのような言葉は、そばにいるということを伝えるもののような気がする。感情的に一致することはできないけれど、その気持ちに寄り添っているということを伝える言葉。

だから、逆に、音声として口に出さなくてもそばにいるだけで支えられるときがあるのだろう。寄り添ってくれていると感じられるあり方で側にいてくれたら、それは十分に寄り添いの「言葉」だ。ここで「言葉」という表現を使うのは、やはり、ただそこにいるのではなく、寄り添っていると伝えようとすることに大きな意味があると思うから。


そうやって、いろんな場面でいろんな形で寄り添いを伝えてくれた人が自分の人生の様々な場面にいたことを思い出す。だから、こうしてこの年まで生きて来られた。ほんとうに自分の生には、いろんな人が溶け込んでいるんだなぁ、と改めて思う。
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by hideki_sunagawa | 2014-04-10 18:15 | Diary
2014年 04月 05日

ある/ない、ではなく、つくる

▼恩師の言葉

大学院に入ってすぐ、僕の指導教官でもあった先生が授業でおっしゃった言葉がずっと頭に残っている。「意見をたずねられて、『ありません』と言う人がいるけれど、意見は、あるかないかではなく、つくるもんなんです」。

そのときの僕には思いも寄らぬ表現だったけれど、とても納得するものでもあった。だから、自分も大学等で教えるときには、「大学院の時に言われた言葉だけど…」と必ずこの言葉を伝えている。

僕は、幼い頃から、自分の意見を言うことが多いタイプの子ではあった。意識することなく意見が言語化されることが多かったので、そこに「あった」ように感じてきた。しかし、それでもやはりそれらの意見は、つくられたものだ。

つくる/つくられた、というのは、もちろん捏造という意味ではない。自分の中にある埋もれているものを見つけ出したり、曖昧なものに形を与えたりするということだ。あるいは、対象(モノや事象)と自分を結びつける作業と言えるかもしれない。


▼意見を求められること

面白いもので、意見を言うようになると、人々は意見を求めるようになる。だから、いっそうそういう人は意見をつくる機会が増える。それを繰り返しているうちに、「意見がある」人のようになっていくのだろう。

僕は、もともと意見を言うタイプだったと書いたけれど、振り返り、「あの頃に意見をつくるレベルが高められたなぁ」と思う時期がいくつかある。大学院時代はその一つだが、その時よりも鍛えられたと感じているのが、大学院に入る前にあった。

20代の中頃、HIV/AIDSの活動を一緒する中で親しくなった大学院生が何人かいた。彼女たちは(そのほとんどは女性だった)、会う度に、何かに関連して自分の意見を述べた上で「秀樹はどう思う?」と尋ねてくれた。それは、僕にとって自分の意見をつくるいい訓練となった。


▼ほかのことも…

そして、最近、ほかにも、「ある/ない」で表現されやすいけれど、実はつくるものってあるんじゃないか、と思うようになってきた。例えば、動機とか、希望や願望とか、将来像とか。

つくるためにはエネルギーが必要なので、体調やら心調(?)やらに左右されることは前提ではある(そして、生育過程において方向付けられた態度や心性も大きく影響することも否めない)。しかし、ある/ない、という問題ではないのではないかと…。

動機は往々にして衝動と混同されがちだけだが、衝動と違い、理由づけられるもの、何かに関連づけられるものだと思う。僕は、時に辛い経験しながらもLGBTの活動を続けて来た動機を尋ねられることがしばしばあるし、自ら自分自身に問うこともある(後者の方が多いかもしれない)。

そのときに、誰かの存在や、何らかの社会的状況、自分の経験に結びつけていく。そうやって、動機をつくり続けてきたのだと思う。


▼希望をつくる…

希望も、私たちは「ある/ない」と語りがちだ。特に自分自身に関することは。もちろん、先に書いたように心身の調子の悪いときには、希望をつくり切れず、その状態を「希望がない」と表現するとすることはあるだろう。その言葉でしか表せない気持ちがあることは、自分自身のことを考えてもわかる。

しかし、希望がある/ない、という言葉だけで考えることと、それは希望をつくり切れない状態だと意識することの間には大きな開きがあるような気がする。回復の程度に応じて希望をつくろうと意識していると、少しでも調子が回復したとき、小さな希望をつくりだすことがしやすくなるかもしれない。

そして、希望と将来像はとても近い関係にある。実は、僕が今回、この「つくる」について書こうと思ったのは、このことについて書きたかったからだ。


▼同性愛者としての将来像

日本では、長らく同性を主に好きな人も異性と結婚をすることが主流だったために、同性愛者として歳を重ねて来た人の姿が見えづらい。本当は、長い間パートナーシップを続けてきたり、独り身でも仲間たちと楽しく過ごして高齢期を迎えて来た(いる)人たちがいるはずだが、なかなかその生き方が見えてこなかった。

それもあって、現在、異性との結婚という選択をしない同性愛者たちで、ある程度の年齢(中年期以降?)に差し掛かっている者たちの中に、漠然とした将来への不安を抱いている人たちが増えている。自分もそれが全くないと言ったら嘘になる。

そのとき、僕らは、将来像がない(あるいは、思い浮かばない)と言いがちだ。しかし、もともと将来像もつくるものではないか? たとえ、それが今の段階ではリアリティーを感じないものだったとしても(リアリティーもつくりあげていくものだと思う)。


▼同性婚やコミュニティ…

その将来像とは、同性婚を含む同性間のパートナーシップかもしれないし、困難を抱えたときに支えあうコミュニティかもしれない。単身者としての生き方かもしれない。

まさに、「私はこう生きたい」という希望は、ある/ないものではなく、つくるものだろう。…と、このフレーズを書いて、「こう生きたい」は、意見でもあるということに気づく。意見と希望と将来像はつながっている。

そして、「私はこう生きたい」という、希望でもあり意見でもある将来像のためには、社会に働きかけて実現していくべきことも出て来るだろう。そう、社会も、ある状態に「ある/ない」というより、常に、ある状態をつくっていくものだ。

当然、希望通りにならないこともある(希望通りにならないことの方が圧倒的に多いかもしれない)。自分の希望や意見、将来像も調整しなくてはいけないことがたくさん出て来る。しかしその調整も含めての「つくる」なんだと思う。

ーーー
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by hideki_sunagawa | 2014-04-05 09:21 | Diary
2014年 03月 18日

いい日

▼那覇市保健所のHIV関連の会議へ出席

今日は、HIV関連の会議で那覇市保健所へ足を運んだ。

実はこの会議、開催の約1週間前に連絡があり、この日に大事な用事を入れていた僕は、その時、出席しようかどうかだいぶ迷ったのだった。しかし、「会議」ながら、僕に30分ほどLGBTについて話して欲しいという依頼つき…むむむ。いろいろ悩んだが、「少しでも多くの人にLGBTについて伝える機会は大事」と思い、先の用事を調整し出席するという返事を。正直者(?)の僕は、気が進まない感をアピールしつつ(苦笑)。

けれど、出席してとても良かった。学校の養護教諭の役員や那覇市の教育庁の人にLGBTについての話ができたこともあるが、それ以上に、那覇市保健所のHIV検査の担当者たちの本気が伝わってきたからだ。

こういう場ではおざなりな情報共有で終わることも多い。特に、行政の異なるセクション間では、強く何かを提案することはしづらかったりもするもの。しかし、保健所のHIV担当の人は、教育委員会の方に、かなり強く「性の多様性について教育の中に入れていっては」と進言していた。そして、担当者たちのLGBTに関する問題意識には真摯さを感じて、それは感動を覚えるほどだった。

なので、もし「HIV検査を受けたいけど、どういう対応されるかわからないのが不安…」という人には、この保健所は自信を持って勧められると思った。というわけで、帰ってすぐに以下のツイートを。

ーーーー
那覇市保健所のHIV会議に出席。実は、那覇市のHIV検査体制の充実ぶりはすごいです。即日(その日に結果が出る)検査が週3回、通常検査も入れると月~金毎日。夜間即日も月一回有。そして担当スタッフたちがとてもいい! http://bit.ly/1on9j8w
ーーーー

この検査体制はスタッフの質も含め、那覇市が誇れるものだと思う。


▼偶然に…

会議終了後、「しぶってたけど、行って良かったなぁ…」と思いつつ、帰路へ。なんとなく「遠回りだけれどこっち方向に歩こう」と思い向かった先で、偶然、昨年、公民館の講座でお世話になった職員とばったり会った。彼女は、その講座以降、時々GRADiやピンクドット関連のものに顔を出してくれている。

「今まで近くで公民館の会議があったんですよー」と言う彼女。そして、「ちょうど砂川さんの話をしてました!ピンクドット7月20日にあるので、みんな来てね!って言ってきました!」と。行こう、ではなく、来てねという表現がうれしいなと思った。こちら側に一緒にいて呼びかけてくれているんだなぁ、と。


▼教え子からのメール

彼女とはそんな会話をしながら一緒に横断歩道を渡っただけで、すぐに別れた。「普段は通らない道なのに、不思議なもんだー」と思いながら、ふと見た携帯のメール。「砂川秀樹先生へ」というタイトル。最近講演に行った先の誰かかな?と思ったら、非常勤講師として行っていた東京にある大学の卒業生であることが冒頭に記されていた。

正直、とても驚いた。なぜなら、その大学の非常勤講師は、沖縄に来るときに辞めたわけで、メールをくれたその人も3-4年も前に僕の授業をとっていた学生だったからだ。長いメールはとても丁寧で、しっかりとした文章だった。

そこには、僕が授業で皆に語った言葉に励まされ、努力して、自分が思い焦がれていた先に就職できたと。そして、その言葉や授業への感謝の思いが書かれていた。

読みながら、あまりの嬉しさに泣けてきた。非常勤講師は、学生とのやりとりは基本的に授業だけのことが多い。そのぶん、何が伝わっているのか伝わっていないのか、何を考えているのかもわかりづらく、時に徒労感に苛まれることもある(特に僕がその大学で持っていた授業は100人を超えることの多いものだったので)。

また、僕はジェンダー論を教えていたこともあり、自分の価値観や考え、自分自身のあり方をオープンにしながら進める形になり消耗する事も多かった。しかし、その中で伝えてきた言葉が一人の学生の中に残って、それがその学生を励ましたなら、これほど教師冥利につきることはない。

そして、今は、彼女の言葉に励まされている自分がいる。ほんとうにありがとう、と、こちらが言う番だ。


▼姉からのメール

気持ちがいっぱい…と思いながら、「そういえば、姉からもメール届いてたなぁ」と、開いてみた。そして、そこに「山城さん帰ったよー」と書かれているそのメールを見て思い出した。『そうだ…今日はフリージャーナリストの山城紀子さんが、僕のカミングアウトについて、母親にインタビューをしに行ってたんだ…』。

母は、78歳。もうすっかり耳も遠くなり、脚の骨を折って以来、家に籠ることがほとんど。また、もともと難しい話ができる人でもない。なので、「どういうやりとりになるんだろう?」と正直、心配していた。

実は、姉経由でそのインタビューの打診を母親にした時に、オッケーが出たことすら意外な気がしていた。そして、今日、姉に同席してもらって、インタビューに答えてもらったのだった。

「今日どうだった?」とドキドキしながら送ったメールへの返事は意外だった。そこにはこういうことが書かれてあった。

「とてもスムーズに進行した。お母ちゃんって、こんなに話すんだ~って、びっくりした」

そして、こうも書かれていた。

「インタビューと言う事もあって、山城さんがお母ちゃんに聞く、お母ちゃんが答える。当たり前な事だけど、私はそんな会話をしてなかった。家族や周りに対しても、ついつい、自分の思う事だけを言ってた気がする。お母ちゃんの気持ちを聞いてなかったと、気が付いた・・ほんとに今日は『聞く』と言う事が大切だと、思った。」

母親がたくさん話をしたというのも感動したけれど(どういう内容だったはわからないけれど)、姉がそれを見ながら、こんな風に自分を振り返ったということにも心動かされた。


▼コミュニケーション

もしも、今日の一連のことに通じるものがあるとするなら(そういうものを発見する必要もないのだけれど…)、やはりコミュニケーションをめぐることかな…と思う。最初の会議には、「こうして欲しい」ということを、別の行政担当者に伝える保健所の人の姿勢への感動が僕にはあった。しかも、それには、LGBTの若者/生徒がどうすれば支えられるか、ということを考えての思いが込められいると僕は感じた。

そして、「ピンクドットに来てね」と会議で語ってくれたという公民館の方の言葉。そう呼びかけてくれたことへの喜びがあった。

元学生のメール。自分の言葉が何年もその人の胸に残っていたこと。その言葉に意味を見いだしていてくれたこと。さらには、そのことを報告してくれたこと。その報告とお礼にまた私が力づけられたこと。

姉のメールには、「聞く/聴く」ことの大事さが書かれていた。僕自身、様々な場面で「聞く/聴く」ことの意味や重要性を語って来たけれど、果たして身内にそれができていただろうかとも考えた。

伝えること、聞く/聴くこと…まさにコミュニケーションの基本。おそれず真摯に語り耳を傾ける。そのことが生み出す力を強く実感した一日だった。しかし、こんなことが立て続けに起きるなんて…そんな不思議な日もあるんだなぁ。
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by hideki_sunagawa | 2014-03-18 22:33 | Diary
2014年 01月 30日

REUNION 〜関係をつなぎ直す〜

東京訪問

ここしばらく、reunionという言葉が頭にある。「re- 再び、union つながる=再会、再結成」という意味だが、今、僕の頭の中にあるreunionは「関係をつなぎ直す」という説明的な表現の方がぴったりくる。

12月に、盛岡大学に講演に行き、帰りに東京でICU(国際基督教大学)で講演し、またシューレ大学で話をさせいただいた。そして、これまでも東京に行く時にそうしていたように、何人か東京でつながっていた人たちと再会。

このような再会と、そしてなにより、シューレ大学で語らせてもらったことが、僕の頭にreunionという言葉を思い浮かばせてくれたような気がする(シューレ大学で話している様子 <なんでこんなに笑ってるんだろう?w)

それから約一ヶ月後、年が明けて、早稲田大学で企画していただいた講演のために、また東京へ行くことに。このときは、急遽、東京で関係のあった人たちに声をかけて、「ピンクドット沖縄報告会」を開くことにした(アドレスがみつかる人たちに案内をおくったけれど、漏れてた人がいたらごめんなさい)。


後ろめたい気持ち…

急な声かけだったが、小さい会議室がいっぱいになるくらい集まってくれた。ずっと会えていなくて気になっていた人とも会うことができた。お互い、だいぶ前から顔を合わせつつ、あまりちゃんと話せていなかった人と改めて出会い直すことができたりもした。東京を離れてから出会った人だけれど、これからもやりとりをしていきたいと思う人たちもいた。

僕は、その場で、自分が東京を離れたことについて語りなおした。

僕は、沖縄に越してから、正直心のどこかで後ろめたい思いを抱えていた。それは、東京で支えてくれた人たちとの関係を一方的に切るかのようにその地を離れたような気がしていたからだ。

東京を去った理由は、これまでもいろんな表現で書いたり語ったりしてきた。どれも本当なのだけど、今ようやくその根底にあった感情が整理できるようになって気がする。そのことを、その集まりで語り、東京で知り合った大切な人たちともつながり続けて行きたい、ということを伝えた。


「どちらか」でなく

もちろん、沖縄でも一緒に活動する仲間がおり、支えてくれる人がいて、大切な関係が広がり深まっている。でも、エッセイ集の『誰もが誰か一緒に歩けるように』の「あとがきにかえて」にも書いたのだけれど、ある友人の言葉から、どちらかを選び、どちらかを捨てるというものではないのだと気づかされた。

そして、この集まりでは、僕のパートナーが、僕の東京ー沖縄の行き来の意味について、とてもわかりやすい表現で説明してくれた。このときの話も含めて、そして東京を去ったことの振り返りや、沖縄に越してから考えてきたことなどをまた文章をまとめられたらいいなぁ、と思っている。ちょっと大変な作業だけど…

(ちなみに…早稲田大学では、招いてくださった先生や、運営準備をしてくださった助教の方々、聞きに来てくれた人との素敵な出会いがありました。あらためて企画くださった先生に感謝。)


ーーー以下、宣伝ですーーー

沖縄タイムスで連載していたエッセイをまとめなおした拙著『誰もが誰かと一緒に歩けるように』、販売しています(表紙を入れて48pの薄い冊子ながら1000円+税と寄付込み値段で恐縮ですが…)。これからGRADiオンラインショップでも発売する予定ではあるのですが、とりあえず、メール&振り込みで送付しております。ご希望の方は、gradi☆me.comへご連絡ください(☆をアットマークに変えてください)。

店頭販売は、ジュンク堂書店那覇店さんと、BIG GYM上野店さん(ゲイ/バイセクシュアル男性向けのショップなのでそれ以外の方はご遠慮ください)で販売いただいています。

ジュンク堂書店那覇店さんでは、2階の沖縄関連本コーナーの教育の棚にあります。また、ジュンク堂書店那覇店さんで、2月14日(金)午後7時〜、この本をテーマにした(&バレンタイン記念?)のトークをおこなう予定です。


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by hideki_sunagawa | 2014-01-30 15:48 | Diary
2013年 12月 28日

私の2013年 / My 2013

*私が共同代表を務めたピンクドット沖縄、7月14日に開催しました。当日の来場者は800人。関連イベントの参加者をあわせるとのべ2000人余りが参加した大イベントとなりました。また、地元の各メディアも大きくとりあげてくれて、大きな社会的なインパクトを与えられたと思います。

We held Pink Dot Okinawa on July 14th.
Approximately 800 people visited the gathering place
and more than 2000 participated in pre- and post- events.
The local news papers and TV news featured Pink Dot Okinawa
and I'm sure that it influenced Okinawan society positively
on LGBT issue.

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*2012年5月に開いたスペース GRADiも無事に1年を越えました。

In May we celebrated the first anniversary for GRADi,
my office which we use as a base for our activities
and where I/we have classes or gatherings.

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*12月にエッセイ集を出しました。今年の上半期に沖縄タイムスで連載したエッセイをまとめた冊子を出しました。ジュンク堂書店那覇店さん、BIGGYM上野店さん(ゲイ/バイ男性向けのショップです)で販売しています。

48ページというページ数の割に1000円と高いのですが、活動支援値段とご理解ください。年明けから、オンラインショップでも販売します(その前に郵送で買いたいという方は、メールで連絡ください。gradi☆me.com ☆をアットマークに変えてください)

I published a booklet of my essays (in Japanese)
which includes all essays I wrote in Okinawa Times,
a local newspaper in the first half.

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*私が代表を務めるレインボーアライアンス沖縄で、那覇市地域福祉補助金、LUSH Japan Charity Bankの助成金をいただけることになりました。レインボーアライアンス沖縄での活動もこれらの活動資金で充実させていきます。

Rainbow Alliance Okinawa has been granted funds by
Naha city and LUSH Japan.
We have started programs to improve situations
around LGBT in Okinawa by these funds.


*しかし、この一年間でもっとも大きかったのは、活動を通してさらに仲間の輪が広がったことや、パートナーの関係も7年を迎えることができたことことでしょう。そして、今年もたくさんの方々から、物心様々な形で支援をいただきました。こうして無事に一年を終えられそうなのは、本当に皆様のおかげです。心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。

However the best things for me are that
I've got more comrades in LGBT activities in Okinawa
and that I could cerebrate 7 year anniversary of the relationship
with my partner.

Moreover, I received help and assistance from many people.
I really appreciate for those. Thank you, everyone!
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by hideki_sunagawa | 2013-12-28 00:55 | Diary
2013年 11月 30日

文章を書くこと / To keep writing

(English summery is following)

デパートで気になる品物を物色していると、ふいに「あのー、失礼ですが、砂川さんですよね…」と女性から声をかけられた。なんとなく顔に見覚えがあったので、中学か高校の同級生かな?と思ったら、僕の二人の姉の共通の友人だった。近所に住んでいたし、姉と一緒のときに会ったことがあったので、名前を聞いてすぐに分かった。

その彼女が「前々から伝えたかったと」と真っ先にした話は、僕が昔、沖縄の新聞の読者欄に投稿した文章のことだった。

それは、僕のすぐ上の姉(8年前に逝去)が、ある行政機関に行った際にとてもひどい対応を受けたことについてのもの。姉が僕に語った「提出しなくてはいけない書類が難しくて、わからない中、バカにされ嫌みを言われてとても悔しい思いをした」という話について書いた。他にも老齢の女性が怒鳴られるような対応を受けていたという。

姉が「抗議したかったけれど、自分にはその力がなくて」と言うのを聞いて、僕が書こうと思い立って勝手に書いたのだった。彼女は中学卒業で、勉強も得意ではなかったため、言葉で(特に文章を書いて)表現することに苦手意識がある。それが、行政機関で萎縮する原因にもなっていただろうし、また、そのような職員の対応に一層傷つくことにつながっていただろう。

その投稿の内容に胸がすっとしたと、声をかけてきてくれた彼女は語った。彼女も(一緒に行っていたのか、別のときにかわからないが)、腹を立てていたので、と。


彼女がこの話を真っ先にしたことに僕は驚いた。というのも、実はこの投稿は、もう25年くらい前のもので、自分ではすっかり忘れていたものなのだ。

もちろん、身近な人が書いたから、ということもあるわけだが、そんな昔の投稿欄の内容を覚えてくれている人がいるなんて! 覚えておいてくださった彼女に感謝するとともに、文章を書いていくことの意味と重さを感じさせるやりとりとなった。

この日記にその話を書こうと振り返りながら、ふと、なんだか亡き姉から「書き続けてね」と励まされているようだと思った。

姉は、たくさんつらいことを経験した人だった。育った家庭(つまり僕が育った家庭)の問題にもっとも大きく影響を受けてしまったり、ちょうど一番学校での関係性が難しい頃(小学5年)に兵庫県から沖縄に引っ越したきたことで、学校でうまくいかなかったり。

そして、彼女自身はそのような言葉や枠では意識していなかったけれど、ジェンダーの問題に苦しまされていた。それも僕がジェンダーの問題にこだわり続ける理由の一つだ。彼女の人生には、個人の問題を超えた様々な問題が絡んでいる(どんな「個人の問題」も社会との相互作用の中にあるのだけれど)。

彼女の代弁をする権利が僕にあるとは思わないけれど、彼女を見ていた(よく相談も受けていた)僕が語らなくてはいけないことがあるような気がずっとしてきた。「そうだ。僕が語らなくてはいけないことが、まだたくさんある…」そんなことを思い出させてくれた偶然の出会いだった。


A woman talked to me in a department store. I recognized her
by her name she addressed. She was a friend of my two sisters.
It may be the first time seeing her since I graduated junior
high school.

Saying "I have wanted to tell you this," she mentioned one of
my writings in a reader's column of a local newspaper long
time ago. It was a protest over attitudes of staff of an
administrative office towards users, as my younger sister
experienced.

My sister told me how it was mortifying to be looked down on
and made sarcastic remarks by them during she was filling out
very complicated and difficult papers. There was also an old girl
who was being instructed like that she was scolded, she said.

My sister, who passed away 8 years ago, was low-educated
and not good at writing. She said sadly "if I knew how to protest,
I would do. But I'm not smart enough." So I wrote about that.

The friend of my sisters said "what you wrote really made me
feel good. I was also mad about them." Honestly speaking
I was very surprised at her talk, because it was about 25 years ago
that I wrote that. She have remembered that and wanted to
tell me how she felt so long time!

I was very thankful that. At the same time, I thought the meaning
of expressing my thoughts and feelings by writing. It's very
significant and going with responsibility.


Reflecting this encounter, I felt like that my dead sister
was encouraging me to keep writings to express publicly.

Her life was full of difficulties. She was influenced by problems
of our family directly. After she was married, she suffered from
child care and relationships with husband's family.

Those were gender problems, I think. Of course she didn't know
what gender was and think her hardship in such a frame.

Thought I don't think that I have a right to represent her,
I'm convinced that I should speak what I had thought in
conversations with my sister (she often called me living in
Tokyo and told her agony).

That coincident encounter with the women was like a present
that reminded me one of my missions.
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by hideki_sunagawa | 2013-11-30 21:07 | Diary
2013年 11月 07日

親友の命日に

11月7日は、東京にいたときの親友、がんすけ(春日亮二)の命日だった。今年(2013年)で丸6年、7回忌。もうそんなに経ったの?と何度も数え直した。

今も時々、「そういえば、もういないんだよね」と亡くなったことを確認しては、どこかに信じられない気持ちが残っていることに気づく。これだけ経っても、「何かの間違いであって欲しい」と思う。

何度も同じ話を書く。彼は、僕が2000年にパレードをやったときに精神的に最も支えてくれた人。というより、彼がいなかったら僕は死んでいたかもしれない。だから、僕は彼を命の恩人と思っている。2000年のパレードでバーンアウトした僕の代わりに、翌年、翌々年のパレードの目処をつけたのも彼だ。

その前に、彼はスタジオスタッグという会社の経営者で、ゲイ向けの、今で言うSNSをつくりあげた天才的エンジニアでもあった。彼がゲイでなかったら(いや、ゲイであることを大切にしてゲイ向けのビジネスをするのではなく、広く「一般向け」の事業に重きをおいていたら)、おそらく日本のIT業界で指折りの成功者になっただろう。

彼は、30歳になった頃から独学で曲づくりを勉強し、ゲイとしての思いを込めた曲をつくり、また、LGBTのインディーズミュージックシーンを盛り上げた。

そんな「功績」を書くと、彼のダークな部分を指摘して揶揄する人もいる。実際に色んな面があっただろうと想像するけれど、でも、それは僕にとってはどうでもいいこと。いや、すべてをひっくるめて彼は僕には大切な人だった。


僕が彼と出会ったのは1990年代半ば。HIV/AIDSに関するゲイ/バイセクシュアル男性向けの啓発活動や調査の協力の話がきっかけだった。最初に会ったときの眼光の鋭さ、忘れられない。しかし、すぐに「この人は信用できる」と思った。そして、不思議なことに、会った帰り道には、「何かあったら、あの人がいれば安心できる」と思っていた。

彼とはその後急速に仲良くなった。お互い性的に活発な時だったし、お互い色恋の対象になる相手でもあったけれど、なぜか(?)そういう関係にはならなかった。

僕はいつまでも「頼りになる人」というイメージばかりで、亡くなる前の数年間の大変な時期を十分に支えてあげることができなかった。病室で、「もうすっかり弱い人間になっちゃったよ」と言っていた言葉を忘れることができない。

先に亡くなった方の棺を残った方が先頭となって担ごうと言っていたのに、そんな葬儀も実現せず、僕が会ったときにはもう骨壺の中に入っていた。いまだに僕は、彼が火葬される場に立ち会えなかったこと、骨を拾えなかったことを悔しく思っている。いろんな複雑な背景があるのは確かだけれど、彼がゲイでなかったら、きっとそうはならなかったと思う。


命日になる度に、そして、くじけそうになるときに、彼が作詞作曲した「Everything for You」をいつも繰り返し聴く。「君がいつか 辛過ぎて その場にうずくまるような時に 思い出してごらん 僕に語ったあの大切な夢を」。2000年のパレードを終えて疲れ切って沖縄に帰った僕にもとに、「砂川のためにつくった歌だよ」というメールが彼から届いた。そのメールを読んだときのことを、まわりの情景も含めて、今もありありと思い出すことができる。

いつも何かを為す度に彼のことを思い出す。博論を完成させたときも、『カミングアウトレターズ』を出したときも、沖縄でピンクドットを開催したときも。彼とその経験をシェアしたかったと思う。

でも、彼が僕のことを見守ってくれていると僕は信じている。

そんなこと言う僕に、「もう、いつまでも頼ってばっかりなんだから!」という彼の声が聞こえるようだけれど(苦笑)


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写真は、『パレード 東京レズビアン&ゲイパレード2000の記録』
(砂川秀樹編著、2001、ポット出版)より
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by hideki_sunagawa | 2013-11-07 23:59 | Diary
2013年 07月 06日

ピンクドット沖縄

超久しぶりのブログの更新。

▼ピンクドット沖縄開催へ向けて

今年に入ってから、GRADiを軌道に乗せるための新しい試み(カフェ、オンラインショップ)や、それとも関連した大きな生活の変化(東京から沖縄に越して来た友人との同居)、そして何より7月14日に開催する「ピンクドット沖縄」の準備の日々。

やるべきことの量が多いこともさることながら、やらなくてはいけないことの種類が多くて、頭が分裂しそうな毎日。しかし、ピンクドット沖縄は、初めての開催にしては上出来と言っていい雰囲気で進んでいる。

先々週だったか、実行委員会でその段階での振り返りをしたとき、何人かの口から「このイベントの目標はもう半分以上達成できたようなもの」という言葉が聞かれた。もちろん、本番の7月14日(日)にたくさんの人が集まってこそ、大成功と言えるのだけれど、このイベントに向けて実現してきたことはとても大きいと思う。


▼ピンクドット沖縄の特徴〜アライズの支援

このイベントの特徴は、アライズ(allies)と呼ばれるnon-LGBTの支援者がとても協力してくれていることだ。会社を経営している高校時代の友人や、その経営者仲間が、この趣旨をとても良く理解してくれ、いつも応援してくれている。また、イベント当日に向けて作成する冊子には、「一般」の会社の広告がたくさん入った。

また、ピンクドット沖縄は、なは女性センターの協力おおかげで、那覇市が共催(!)になっているし、(一財)沖縄観光コンベンションビューロー、沖縄タイムス社、琉球新報社も後援についてくれている。さらに、当日の案内を掲載しているパンフには那覇市保健所がHIV検査についての広告を出してくれた。


▼メディアでの取り上げ

沖縄では、新聞は地元の沖縄タイムスと琉球新報の二社がシェアのほとんどを占めるのだが、その二社が何度も、しかも大きなスペースを割いてピンクドット沖縄の活動を紹介してくれた。特に7月3日の沖縄タイムスの記事は丹念な取材をまとめたもので、すばらしい。また、7月5日の琉球新報の記事もイベントについて分かりやすく紹介してくれた。

2013年7月3日の沖縄タイムスの記事はこちらから

この後もまだ関連の記事が掲載される予定だ。

また、海外のLGBTサイトでも大きくとりあげてもらった。アジア最大のLGBTニュースサイトFridae、毎日ニュースを配信しているGAYSTARNEWSでの紹介のほか、韓国語やスペイン語でも紹介されている。

Fridaeの記事はこちらから

また、7月4日、5日と連続してRBCラジオで紹介する時間をいただいた。その前には(だいぶ前だけれど)タイフーンFMにも二回出演させてもっている(もう一度、イベント直前にも出させてもらう予定)。

3月1日に出演させていただいた時の様子は、ここから聴くことができます。13分間ほどの長さです。

bg
20130301性的マイノリティが生きやすい社会を 願う「Pink Dot Okinawa」の取組み/代表 砂川秀樹
2013年3月1日 更新
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タイフーンfm



▼最大の成果

しかし、もっとも大きな成果は、素晴らしい実行委員が15人も集まったことだ。これまでこういうイベントがなかった沖縄で、これだけの人数が参加しともに活動すること自体の意義を深く感じている。皆、とても個性的な人たちばかり。それぞれにできることを一生懸命にやっている。

それぞれのセクシュアリティに関係なく、同じ目的で集まった人たち。LGBTが生きやすい社会をつくることは、LGBTのためだけでなく、より豊かな社会にしていくために必要なことだと考えている人たちだ。そのための大きな一歩を僕たちは踏み出したと思っている。
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by hideki_sunagawa | 2013-07-06 01:03 | Diary
2013年 05月 29日

情報あれこれ

超久しぶりのブログだけれど、宣伝で申し訳ないのですが…

最近GRADiオンラインショップというのを開設しています。

http://gradi.ocnk.net

僕のpdf版の電子書籍や現在、僕が代表を務めているPInk Dot Okinawaの応援グッズなどもあります。クレジットカードもご利用いただけます!

また、電子書籍は、Kindle版がAmazonでも買えます。




また、Pink Dot Okinawaについてはこちらをご覧ください。

http://www.pinkdotOK.jp

Facebookをご利用の方は、いいね!ボタンを押してくださーい。

http://www.facebook.com/pinkdotokinawa

twitterもありますよ

@pinkdotOK

どうぞよろしくお願いしまーす。
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by hideki_sunagawa | 2013-05-29 01:58 | Diary
2013年 04月 20日

東京滞在記(2013.4.15-19)

沖縄に戻ってから丸二年、一年ぶりの東京だった。

4泊5日と長めの滞在だったが、ピンクドット沖縄の挨拶のためにいくつかのバーをまわり、関連イベントのオーガナイザーと打ち合わせをし、ゴールデンウィークから始める予定のカフェ用の什器を物色し…と、結局ばたばたしているうちに過ぎた。お会いしたい人はたくさんいたけれど、皆に声をかけられないままになってしまったのが心残り。

今回の東京滞在は、僕<が>つながりたい続けたい人たち、僕<と>つながり続けたいとと思ってくれている人たちが誰なのか、ということを考えさせられるものだった(もちろん、会えた人たちだけがそうという意味では決してなく)。

僕を「お帰り」と迎えてくださった方々。そうは口にしなくても、そういう雰囲気で会ってくれた人たち。皆、忙しい日々を過ごしているのに、僕と会うために時間をつくってくれたたり、声をかけたのに時間を空けてくれたり…本当に、感謝するばかり。

そんな中、僕の心を動かした再会の一つは、やはりシューレ大学の人たちとのものだった。行けるかどうかわからなかったので、到着してから連絡をとり、訪問したいと伝えた。急だったので、スタッフの朝倉さんと顔を合わせて、お土産を置いてくるだけのつもりだった。

しかし、学生さんも10人くらい集まってくれて、お話をする時間をもうけてくれた。皆が待っている教室に入ったときには、胸が熱くなった(心の中では、泣いていた)。

そして、GRADiやピンクドット沖縄について紹介しながら、沖縄に住んでから感じていること、考えていることについてお話した。二年前、東京を離れる直前にも同じようにお話をする時間をいただいたが、その後の私…という感じの話となった。

質疑応答も含めての1時間20分ほどだったが、この二年間で感じてきたこと、今感じていることを最も率直に語った時間だったような気がする。シューレ大学は、いつも正直な気持ちを安心して語られる雰囲気をつくってくれる。

東京を離れるときの会でも、核心をつく質問を受けたが、今回も。ここで受ける質問は、いつも僕に自分をしっかり振り返り、今後どうするのか、どうしたいのか考えるきっかけをくれる。

今回のやりとりを通して、僕にはまた一つの目標ができた。その目標を実現するためには、まずは、今やっていることをしっかり軌道に乗せなくてはいけない。そのためにがんばろう、と決心を固めた。

話が終わった後、朝倉さんは、日本国憲法に男女平等の文言を入れるのに尽力したベアテ・シロタ・ゴードンさんの「ふるさと観」を僕に教えてくれた。彼女は、ロシア出身の両親を持ち、オーストリアの国籍を持ち、幼い頃から日本に滞在し、その後米国へ(そして米国籍へ)という背景を持っているが、彼女は、ふるさととは大切な人たちのいる場所のことと語っていたという。

僕は、「沖縄も東京もふるさと」と場所のくくりだけで語っていたけれど、実は、シューレ大学などのように、「おかえりなさい」と言って迎えてくれる場や関係性こそが、ふるさとなのかもしれないなぁ、と思った。







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by hideki_sunagawa | 2013-04-20 15:02 | Diary