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2009年 11月 12日

『死者たちの戦後誌』

以前から、紹介したいと思いつつ、その優れた厚みのある内容を、どう書いたらいいかと考えているうちに、読んでからずいぶんと経ってしまいました。

今年の9月に出版された、北村毅さんの『死者たちの戦後誌 沖縄戦跡をめぐる人びとの記憶』(御茶の水書房)。

1960年代まで、沖縄戦で亡くなった人たちの遺骨は、地域の人たちによって集落ごとに設置された納骨所へとおさめられていたという。戦後しばらく、農作業のたびに遺骨が出てくる、沖縄はそんな土地だったのだ。納骨所の多くは壕として使われていたガマ(洞窟)を利用したものだった。

「沖縄では古くから、自然洞窟は墓所としても利用され、風葬が行われる場所でもあったことから、そこは、死者を埋葬するにふさわしい場所であった」と著者は語る。

戦争の記憶が生々しい中、ガマに遺骨を集める作業は、どんなに辛い作業だっただろう。きっと、それらの遺骨は、明確に誰のものかわからないにしても、それぞれの人にとっての身内であり、ある意味では自分自身でもあったかもしれない。

しかし、そうして、ガマに集められ供養されている遺骨が、1952年に全国紙で「遺骨が野ざらしになっている」と問題化されることになった。そのきかけになったのは、大阪から沖縄を訪れた人が紙上で「各部落ごとに一つが二つの納骨堂はあるが、納骨堂といっても天然の防空穴に遺骨を詰めたものでゴミ捨て場と変わりない」という発言だったという。

そのような視点に対する反論も沖縄の中で起こったものの、その後、1956年に日本政府から琉球政府へ必要経費が交付され、大規模な遺骨収集事業の実施と「総合納骨堂」の建設への流れができていく。

それは沖縄県側からの希望であったのだが、もともと、それは、分骨という形での「総合慰霊碑」というものだった。しかし、それが「総合納骨堂」に「転骨」するという、整理統合案へとすり替わっていった(当時、納骨施設は188カ所)。

転骨作業には反対の声も多かったが、1960年代に急速に進められる。その結果、1952年には、99%の慰霊碑がなんらかの形で納骨をともなっていたが、中央集骨所への転骨が進むなか、1998年に納骨がともなうものは3%になったという。

当時、「無名戦死者」の遺骨は「戦死の現場かそれに近い地点」に収められることが「人情の自然」という主張もなされたが、時代の流れとして転骨に各集落は同意することになったようだ。このような流れを、北村さんは丁寧に資料を読み解きながら追っている(ここでは、とても簡単にまとめてしまいました、すみません)。

北村さんは、この変化を次のように語っている。

「霊域整備事業の展開の中で転骨された慰霊塔のほとんどは廃塔になったが、そうならなかった場合でも、集骨口やガマの開口部が封鎖されることによって納骨所としての役目を終えた。その措置によって、慰霊塔内部に若干の遺骨が残っていた場合でも、遺骨の存在は不可視化され、戦跡空間から隠蔽された。」

この本の中には、この遺骨をめぐる問題のほか、ひめゆりの塔のこと、遺児たちによる慰霊行進をめぐる話など、忘れられてきた沖縄の戦後史が記録されています。すばらしい研究です、ほんとうに。
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by hideki_sunagawa | 2009-11-12 17:53 | notice


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