2014年 04月 05日

ある/ない、ではなく、つくる

▼恩師の言葉

大学院に入ってすぐ、僕の指導教官でもあった先生が授業でおっしゃった言葉がずっと頭に残っている。「意見をたずねられて、『ありません』と言う人がいるけれど、意見は、あるかないかではなく、つくるもんなんです」。

そのときの僕には思いも寄らぬ表現だったけれど、とても納得するものでもあった。だから、自分も大学等で教えるときには、「大学院の時に言われた言葉だけど…」と必ずこの言葉を伝えている。

僕は、幼い頃から、自分の意見を言うことが多いタイプの子ではあった。意識することなく意見が言語化されることが多かったので、そこに「あった」ように感じてきた。しかし、それでもやはりそれらの意見は、つくられたものだ。

つくる/つくられた、というのは、もちろん捏造という意味ではない。自分の中にある埋もれているものを見つけ出したり、曖昧なものに形を与えたりするということだ。あるいは、対象(モノや事象)と自分を結びつける作業と言えるかもしれない。


▼意見を求められること

面白いもので、意見を言うようになると、人々は意見を求めるようになる。だから、いっそうそういう人は意見をつくる機会が増える。それを繰り返しているうちに、「意見がある」人のようになっていくのだろう。

僕は、もともと意見を言うタイプだったと書いたけれど、振り返り、「あの頃に意見をつくるレベルが高められたなぁ」と思う時期がいくつかある。大学院時代はその一つだが、その時よりも鍛えられたと感じているのが、大学院に入る前にあった。

20代の中頃、HIV/AIDSの活動を一緒する中で親しくなった大学院生が何人かいた。彼女たちは(そのほとんどは女性だった)、会う度に、何かに関連して自分の意見を述べた上で「秀樹はどう思う?」と尋ねてくれた。それは、僕にとって自分の意見をつくるいい訓練となった。


▼ほかのことも…

そして、最近、ほかにも、「ある/ない」で表現されやすいけれど、実はつくるものってあるんじゃないか、と思うようになってきた。例えば、動機とか、希望や願望とか、将来像とか。

つくるためにはエネルギーが必要なので、体調やら心調(?)やらに左右されることは前提ではある(そして、生育過程において方向付けられた態度や心性も大きく影響することも否めない)。しかし、ある/ない、という問題ではないのではないかと…。

動機は往々にして衝動と混同されがちだけだが、衝動と違い、理由づけられるもの、何かに関連づけられるものだと思う。僕は、時に辛い経験しながらもLGBTの活動を続けて来た動機を尋ねられることがしばしばあるし、自ら自分自身に問うこともある(後者の方が多いかもしれない)。

そのときに、誰かの存在や、何らかの社会的状況、自分の経験に結びつけていく。そうやって、動機をつくり続けてきたのだと思う。


▼希望をつくる…

希望も、私たちは「ある/ない」と語りがちだ。特に自分自身に関することは。もちろん、先に書いたように心身の調子の悪いときには、希望をつくり切れず、その状態を「希望がない」と表現するとすることはあるだろう。その言葉でしか表せない気持ちがあることは、自分自身のことを考えてもわかる。

しかし、希望がある/ない、という言葉だけで考えることと、それは希望をつくり切れない状態だと意識することの間には大きな開きがあるような気がする。回復の程度に応じて希望をつくろうと意識していると、少しでも調子が回復したとき、小さな希望をつくりだすことがしやすくなるかもしれない。

そして、希望と将来像はとても近い関係にある。実は、僕が今回、この「つくる」について書こうと思ったのは、このことについて書きたかったからだ。


▼同性愛者としての将来像

日本では、長らく同性を主に好きな人も異性と結婚をすることが主流だったために、同性愛者として歳を重ねて来た人の姿が見えづらい。本当は、長い間パートナーシップを続けてきたり、独り身でも仲間たちと楽しく過ごして高齢期を迎えて来た(いる)人たちがいるはずだが、なかなかその生き方が見えてこなかった。

それもあって、現在、異性との結婚という選択をしない同性愛者たちで、ある程度の年齢(中年期以降?)に差し掛かっている者たちの中に、漠然とした将来への不安を抱いている人たちが増えている。自分もそれが全くないと言ったら嘘になる。

そのとき、僕らは、将来像がない(あるいは、思い浮かばない)と言いがちだ。しかし、もともと将来像もつくるものではないか? たとえ、それが今の段階ではリアリティーを感じないものだったとしても(リアリティーもつくりあげていくものだと思う)。


▼同性婚やコミュニティ…

その将来像とは、同性婚を含む同性間のパートナーシップかもしれないし、困難を抱えたときに支えあうコミュニティかもしれない。単身者としての生き方かもしれない。

まさに、「私はこう生きたい」という希望は、ある/ないものではなく、つくるものだろう。…と、このフレーズを書いて、「こう生きたい」は、意見でもあるということに気づく。意見と希望と将来像はつながっている。

そして、「私はこう生きたい」という、希望でもあり意見でもある将来像のためには、社会に働きかけて実現していくべきことも出て来るだろう。そう、社会も、ある状態に「ある/ない」というより、常に、ある状態をつくっていくものだ。

当然、希望通りにならないこともある(希望通りにならないことの方が圧倒的に多いかもしれない)。自分の希望や意見、将来像も調整しなくてはいけないことがたくさん出て来る。しかしその調整も含めての「つくる」なんだと思う。

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by hideki_sunagawa | 2014-04-05 09:21 | Diary


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