2011年 12月 07日

助けを求める大切さ

昨日、母親の胆のう摘出の手術があり、3時間以上病院で待つ事に。その間、姉と色々な世間話をしたのだが、その中で、様々な問題を抱えている人たちの話を聞いた。

そして、どれも問題が現在進行形ながら、家族内の問題、個人の問題として考えられているようで、他者の力を借りての解決の模索、あるいは、その大変な状況を生き抜くための下支えが得られてない状況が気になった。

家族内の問題として意識され、その中でなんとかしようと思っていることの多くは、同じような問題を抱えている人がたくさんいて、自助グループや支援グループがあったり、その問題に関する専門家がいたりする。

そのようなリソースにアクセスできるかどうか、あるいは、それ以前に、そういうものがあるということを知っているかどうか(あるかもしれないと思えるかどうか)によって、その問題の生き方が全然違って来るものだ。


例えば、子に、何らかの「障がい」と呼ばれるような特徴があった場合、その子の「問題」だからしょうがないと考えてしまうか、社会やコミュニティ、ネットワークが整えば、その特徴があっても安心して、安全に生活できたり、活き活きと生きられるようになるのであって、それができないのは、その周りの環境が不十分だからと考えるかによって、その子の生活の質や、人生は大きく異なるだろう。

それは、他の問題にも言えることだ。パートナーからの暴力を、個人関係と考えるのか、社会的な問題と考えるのか、依存症を解決するために本人の意志が全てと考えるのか、専門家や当事者グループのサポートを得るのか。

家族の一員がHIVに感染したことを知ることになったときに(本人の同意なく本人に知らせることはしてはいけないことだが、いまだに、家族に勝手に伝える医師もいなくはないとか)、「本人の責任」と考えて、家族が支援せずに離れたり、理解する努力をせずに一切関与しないという態度をとるのか、それとも、支援グループなどにアクセスするのか。


いずれも、後者の発想をしたからといって、「解決」できるとは限らない。しかし、後者の方が、少なくとも、その状況をなんとか悪化させずに、やり過ごして行けるようになったり、そうこうしているうちに少しずつ好転したりする事もある。

だが、そのことを知っている人は少なく、そのせいで、問題が余計に複雑になったり、複雑になったり、別の問題を招いたりする。最悪の場合、命の問題にもかかわってくる。


だから、家族内やパートナー間、あるいは一人で抱え込まずに、外に助けやサポートを求めることは、重要だ。もちろん、助けを求めた先が、うまく対応できるところとは限らない。たまに、支援しているはずのところなのに、サポーティブな態度を示さないこともある。

そうなると、絶望したくなるが、それでもあきらめずに探すこと。少なくとも、ただひたすら抱え込んでしまうより、その方がより良い状況になる(より悪い状況にはならない)可能性は遥かに高い。

とりあえず、姉の知人の問題の一つに関しては、自助グループを調べて伝えてみた。少しは役に立つといいのだが。
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by hideki_sunagawa | 2011-12-07 06:20 | Diary


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