2011年 12月 01日
▼「ハートをつなごう HIV特集」 今日は世界エイズデー。この日に向けて、昨日までの三日間、NHK教育テレビ「ハートをつなごう HIV特集」が放送されていた。最後の二日間は、男性同性間のHIV感染の問題、新宿二丁目での啓発活動について取り上げていた(昨年撮影された映像も使われいたので、僕も密かにミーティングシーンに、チラっと映り込んでいた…笑)。 このような番組が作られていることは、本当にすごいと思う。「ハートをつなごう」が「ゲイ/レズビアン特集」を組んで以来、当たり前のように感じる人が増えているが、今も、こういう番組をつくるのはとても大変なことだ。実現した人たちには、心から敬意を表したいし、感謝する気持ちを伝えたい。 この番組は、「一般」向けに発信されたものとしては、分かりやすく、HIVや新宿二丁目の様子がゲイの視点から描かれてもいて、実に画期的な内容だ。でも、東京の(というより日本の)HIV活動黎明期から今までの様子を内部から見て来たものとして、足しておきたいなぁ、と思うことも色々あった。 ▼資金の問題 とりあえず、その中から一つ。現在の新宿二丁目での活動が実現した背景について。 この番組は分析することが目的ではないし、見ている人に共感を呼ぶことが大事なのだから、「活動内容」という見えやすいところにフォーカスするのは当然だ。けれど、この活動が実現されるまでの背景とそこに至る流れは、重要なので書き記しておきたいと思う。 それは、ゲイ向けの啓発活動が大きく変化するきっかけとなった公的資金の投入、そして、それが実現した流れだ。コンドーム配布やコミュニティセンターは、ボランティアの動機や志だけで成り立っているわけではない。いや、過去においてもそのような試みはかなりされてきたわけで、それが持続しなかったり、規模が小さかったのは、(比較的)安定した資金があったかどうかの差につきると思う。 安定した資金による活動の下支えが実現したのは、厚生省(現:厚生労働省)から、当初は、研究費という形で、後には事業費という形で(財団を通して流れるものも含めて)資金が提供されたことによる。「ゲイコミュニティ」へにおけるHIV啓発活動の分岐点は明らかにこの時点にある。 ▼それは国際エイズ会議から その流れを生んだきっかけは、1994年に横浜で開催された国際エイズ会議だ。このとき、「ぷれいす東京」の代表の池上千寿子さんが、世界のHIVのNGO/CBO(community based oragnization)の統括役となった。 国際エイズ会議では、NGO/CBOの影響力が大きい。厚生省と池上さんが統括するNGO/CBOコミュニティが恊働する中で、当時の厚生省の担当官はNGO/CBOと恊働することの大事さを知り、また池上さんも厚生省と信頼関係を築くことができたのだと思う。 その後、厚生省科研費のHIV研究班に、ぷれいす東京が研究の一部に加わる形で参加。それに少し遅れて、ぷれいす東京のゲイグループ「Gay Friends for AIDS」が、ゲイグループとして初めて、男性同性間のHIV研究班に、研究協力者として参加した。 それは、男性同性間の啓発活動や研究を牽引することになる市川誠一さんらが中心となっていた疫学研究グループがゲイサウナでおこなっていた調査方法をめぐっての意見交換や、その調査がおこなわれているゲイサウナへの啓発介入への参加という形だった。 ▼批判の矢面に… その調査方法に関してはゲイグループからの反発が強かった。そのため、当時「Gay Friends for AIDS」の代表だった僕は、その調査とセットとなっていた啓発介入に参加するかどうかという決断をめぐって、悩み、苦しんだ。苦しみの末に決断し参加したが、結局、ゲイのHIV関係団体で、その研究班に参加したのは僕たちのグループだけだった。それどころか、参加した後、他のグループからの激しい批判の矢面に立つことになり、眠れない夜が続き、泣いた夜もあった。 しかしその後、次第にHIV研究班にゲイのグループが参加することが当然のこととなり、市川さんが分担研究者から、主任研究者として啓発活動を含んだ研究班を持つようになり…。そんな風に、次第に大きな(とは言っても、状況を考えると不十分だと思うが)資金が「ゲイコミュニティ」に流れるようになった。 当然、その流れは自然にできたものではなく、市川さんや、ぷれいすの生島さんや池上さん、JaNP+の長谷川さんらが厚労省にその必要性を認めさせる努力をし、また、厚労省の中でもその実現へ向けて動く人たちがいたことによってできたものであることはいくら強調してもし過ぎることはないだろう。 ▼歴史を書き記すこと こういう変化が、活動の質と規模に大きな影響を与えていっことを書き記しておかなければ、今度、何かを実現していくための参考にはならないだろうと思う。 もちろん、はっきり言って、「あのときの僕の死にそうだった苦しい経験を忘れないでちょだーい!」と言いたい思いもある。あのとき、一つ間違っていれば、僕はその苦しみの中、精神的に病んだかもしれない。でも、そんな苦労も、誰も覚えちゃいないもんだねー(苦笑) もちろん、エイズ会議の約10年前から、南定四郎さんがいち早く、自身が編集する雑誌『アドン』を通じてHIVの情報を流し、エイズアクションという団体を率いて活動していたし、電話相談もおこなっていた。『アドン』の影響力は本当に大きかったと思う。 また、アカー(動くゲイとレズビアンの会)は、ゲイとエイズが結びつけられることに強く抗議をしていた。それをどう評価するかは色々な意見があるが、ゲイがHIV問題に取り組んできた歴史として重要なことは確かだろう。 もはや、ゲイのエイズ問題への取り組みは、一つの歴史となっている。やはりこのことをちゃんと書き記さねば…と改めて思う。それは別に自分の苦労を覚えておいて欲しいからではなく(いや、もしかしたら、少しはそんな思いもあるかもしれない)、そうやって具体的にしっかりと書き記しておかなければ、ゲイの重要な歴史自体なかったことになってしまうし、他の分野に役立つこともないだろうからだ。 ということを前々から言いつつ、全然実現できそうな目処はたっていないけれど…。
by hideki_sunagawa
| 2011-12-01 06:34
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