2011年 11月 12日
あえて誤解を招くタイトルを。このタイトルには二つの意味が込められている。 一つは、もしも仮に、社会の「進化」というのが、一人一人にとって生きやすい社会になることを言うならば(これはかなり勝手な定義づけだけど)、社会の変化は、「進化」の一方向に向かうわけではない。つまり、<必ずしも>「進化」するわけではない、という意味。 そして、社会は<勝手に>「進化」(あるいは変化)するわけでもない、という意味。もちろん、個々人のわかりやすいコントロールの元にもないし、行動がすぐに反映されるわけでもないけれど、人々の動きが社会を変えて行くことは確かだ(けれど、人々は社会によっても形づくられるので、この関係をどう考えるかは難しい…社会科学でも立場によっても解釈は違う)。 そんなことを改めて書こうと思ったのは、ある友人から、20世紀初頭のドイツの性的マイノリティのことを調べているという話を聞いたことから。彼は、その頃の性的マイノリティの権利主張や顕在化の資料を集めているという。そう、知っている人は知っている話なのだが、ナチスドイツの流れの前に、セクソロジー(性科学)が盛んになり、その流れで、性的マイノリティの権利主張もなされるようになっていた。 彼の話から、後々ナチスドイツが同性愛者を強制収容所送りにする理由となった刑法175条に対抗する映画が1919年につくられていたことを初めて知った。 ちなみに、同じ時代に、ニューヨークでもゲイカルチャーが華々しかったことがChauncyのGay New Yorkという本に書かれている。 しかし、20世紀の後半になるまで、ずっと性的マイノリティは抑圧され続けてきたというイメージがある。それほど、その頃の様子が忘れられているからだ。 このことを考えるならば、冒頭で僕が言ったことの意味が分かるだろう。たとえば、今の日本のゲイで言うならば、ゲイバーやゲイサークルなどもあり、ネットで知り合うこともでき、自己肯定できて、そういうものにアクセスできるなら、楽しい生活を送ることができるだろう(もちろん、地域差はあるし、その他の性的マイノリティは、またそれぞれに違う状況にあるけど)。 しかし、そんな生活も認められない社会が来る可能性もある、わけだ。ナチスドイツ下では、同性愛者は、ユダヤ人と同じように強制収容所に送られた。米国では、1950年代に起こった「赤狩り」の中で、同性愛者がに公職から対用される嵐が起きたこともある。 今ある社会のあり方は、常に様々な力のせめぎ合いの中で成立しているのであって、じっとしているわけではない。ちょっとしたバランスの変化で、ある方向に流れて行く。「まだ大丈夫」と思っているうちに、どうしようもなくなっていく…最近その流れを感じている。できることはとても少ないかれど、私は私のいる場でその流れに抗して行かねば。
by hideki_sunagawa
| 2011-11-12 05:43
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