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2011年 10月 20日

カミングアウトをめぐって2

最近、「カミングアウトできる社会より、性的マイノリティがカミングアウトをしなくてもいい、多様性が認められる社会を…」という内容のフレーズを時々目にする。ある意味では「そりゃそうだろうが…」という話なのだが、僕は、それはおかしな言葉だし、現実的には無理な話だと思っている。その理由は主に二つ。


▼リアリティがないものに人は動かされない

一つは、カミングアウトをする当事者が増えない限り、多様性を認められる社会はやってこない、ということ。いくら、「身近にいますよ」と呼び掛けても、実際に身近にいることを実感する機会もないまま想像しろとマジョリティに言っても、そうできる人は現実には少ない。

これまでも多くのマイノリティが、自分をさらして闘って来たのは(そうせざるを得なかったのは)、そうしなければ、状況が改善されなかったからだ。

在日コリアンや在日中国人(華僑)の人たちの中には、実に激しいバッシングが吹き荒れ、差別にさらされる中でも朝鮮名や中国名を使い続けてきた人が少なくない。その人たちの存在がどれだけ、私たちに、身近に在日コリアンや在日中国人(華僑)がいることを教えてきてくれたことか。

また、様々な「障がい」を持つ人たちが、街に出るようになり、街中に様々なバリアー(障壁)があることを指摘し改善を要求し続けることで、わずかずつながらも改良されてきている。性的マイノリティにとっての「カミングアウト」は、「障がい」を持つ人たちの街に出るという行為と重なる(まさに、外に出るという意味なのだし)。
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そして、いくら知識が広がったとしても、社会全体がクルリンパ!と変わることはないのであって、カミングアウトするかしないのかが問われる場面(つまり、性的マイノリティではないという前提によるコミュニケーションの中で、やり過ごしたりウソをつくのか、あるいはいっそ言うのかの選択が迫られる場面)は完全に消えはしないのだ。

そんな場面がある限り、性的マイノリティのカミングアウトをめぐる葛藤の問題は消えはしない。

[右上の写真は、『カミングアウト・レターズ』の表紙…性的マイノリティの本にしては珍しく、今年、五刷目に入り、ロングセラーとなっている。それは、ここで交わされているやりとりが人の心を動かすからだと思う。
まだな人はぜひご購入ください!w]


▼先達が拓いて来た道

むろん、前回も「カミングアウトをめぐって」で書いたように、それぞれ置かれている状況/情況によってカミングアウトの持つ意味は違うのだから、個々人にとってのカミングアウトの是非を語ることはできないし、ここではそんなことは議論していない。このことは強調しておく必要があるだろう。

しかし、<運動論としては>、「カミングアウトをする当事者が増えない限り、理解される領域、多様性が認められる領域は広がらない」ということは、確信を持って言える。

ゆえに、性的マイノリティの活動に深くかかわる人の中で、カミングアウトの意義を積極的に肯定しない人がいるのは、僕にとっては実に驚くべきことだ(その人がカミングアウトするかどうかは、また別の話)。

まさに現在、様々な性的マイノリティの運動が広がり、定着しているのは、様々な団体や個人のがカミングアウトしながら(もちろん、団体に所属する人全員がするわけではないし、カミングアウト=オープンになるということでもないが)、道を切り開いて来た結果だ。

僕は、東京にいたので、活動初期には、OCCURやILGA日本といった団体に強く直接的に影響を受けたし、南定四郎さん、大塚隆史さん、伏見憲明さんといった、ゲイとして素顔を出している人に力をもらってきた(もちろん、掛札悠子さんのようなレズビアンにも)。その流れの中で、HIV/AIDSの活動にエネルギーを注ぎ続け、東京のパレードという重責を担うという決断をし、社会に働きかけてきたのだ。

果たして、当事者が当事者としての自己を提示し、社会に向かって訴えることなく前に進んだマイノリティ差別/抑圧の問題なんてあるのだろうか。


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[写真は、昨年の「第7回東京プライドパレード」の様子。来年は8月11日開催予定!]


▼もう一つの理由

また、「カミングアウトをしなくてもいい多様性が認められる社会」の実現についてだが、もし、カミングアウトの定義を、言語表現によってアイデンティティを伝えること…という狭い意味にとるなら、確かに、それはあり得なくはない(ただし、それも、当事者が、まさにその狭い意味でのカミングアウトかなりするようになった後に訪れる話)。

しかし(とりあえずゲイやレズビアンについて例にとって説明すると)、自分が同性とパートナー関係にあるということ、恋人関係にあるということを誰かに知らせる/伝える、といったこともカミングアウトに入れるなら、カミングアウトをしなくて済む社会は現実的にあり得ない(個人の経験として、そういう場面にでくわさないことがあるというのは別の話)。

異性愛関係にいる人が、恋愛や結婚、子どもがいることをとても重要なテーマとして話し、その話を共有することがとても重要なこととしてある以上、そして、制度的にもパートナーシップが重要な意味を持つ以上、カミングアウトが不要になることはないのだ。

もしも、不要な社会があり得るとしたら、基本的に誰も恋愛や結婚について詳しく語らない社会ということになる。それが、「多様性が認められる社会」というものとはずれていることは明らかだし、何より現実的ではない(ただし、制度に関しては、すべての保障を個人単位に移行させることによって、パートナーシップの意味が軽減し、よって相手の性別も意味が薄らぐ可能性はある…それは確実に多様性が認められる社会への大きな一歩とも言えるが、僕には、そのあり方が本当にいいのか正直わからない)。


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[写真は、昨年、東京プライドで開催した「公共性」について考えるシンポジウム…セクシュアリティは親密性の問題であると同時に公共性の問題でもある。 右手から齋藤純一さん(早稲田大学)、僕、宮地尚子さん(一橋大学)、稲場雅紀さん(NGO ネットワーク「動く→動かす」)、稲見隆洋さん(東京プライド)]


▼カミングアウトという言葉がなくなる日

誰かに自分の性的指向や性自認を誰かに伝えることに、わざわざ「カミングアウト」という言葉をあてはめない社会は十分にありえるだろう。でもそれは、何も言わない社会ではなく、「恋人ができたんだ」という話をするときに、その相手が異性でも同性でもTGでも同じように伝えられる社会のことだ。

そういう意味での「カミングアウトが不要な社会」というなら、確かに僕もそこを目指している。しかし、しつこく繰り返すが、当事者がカミングアウトしないままでは、そんな社会はやってこない。そして更にしつこく同じ事を言うと、この運動としての議論と、各個々人のカミングアウトの判断は別の問題。それぞれに生きやすいあり方を選べばいいことだ。
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by hideki_sunagawa | 2011-10-20 06:23 | LGBT/gender


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