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2011年 10月 14日

カミングアウトをめぐって

米国では、10月11日は「ナショナル・カミングアウトデー」と言われているらしく、ツイッター上でもその話題がのぼっていた。

その中で、僕は、カミングアウトの「強制」をめぐって知人とツイッター上で議論に。彼とは基本的に、性的マイノリティのおかれている状況についての意見は一致する点が多い。今回も意見が分かれたものの面白い議論ができたと思っている。


▼カミングアウトを強く押すアクティビストの存在?

発端は、カミングアウトをめぐっての話題がでる時に、「活動家などは、カミングアウトを強く押すけれど強制されるべきものではない」というような言い方が頻出することについて、僕が疑問を呈したこと。

僕などは、「できる人ができる範囲でやったほうがいい」「やりたいと思った人があまりためらないなくできるような社会にしたい」といった言い方で、カミングアウトを語ることが多い。ちなみに、『カミングアウトレターズ』の解説では、次のように、より慎重な書き方をしている(特に家族へのカミングアウトについて)。

「家族と同居していて、まだ自活していない場合、これまでの家族関係との関係のあり方をより慎重に振り返りつつ、カミングアウトをしても大丈夫かという判断をしなければいけないかもしれない。というのも、場合によっては、それをきっかけに家族との関係が悪化して、家にいづらくなってしまう場合があるからだ。」


そして僕は、自分以外でも、単純にカミングアウトを強く押すような言い方をしている「アクティビスト」を知らない。自分の経験をもとに「してみたら大したことなかったよ」と言う人は少なからずいるけれど。

なので、「そんな、留保もつけずに、単純にカミングアウトを強く押す人なんていないんじゃない?」と書いたのだった。そして、そういう仮構(実際にはないのに、あるという前提すること)が、そういうプレッシャーをかける人がいるようなイメージをつくりあげている、よって、まわりまわってプレッシャーをかけてしまう結果になるのではないか、と。


▼個人の経験と社会的な言説

それに対して、「いや、実際にある」と主張する知人と議論になったわけだが、何度かやりとりしているうちに、彼が個人としてカミングアウトを強く勧められたことと、社会に向けてそういう言い方をしている人がいるかいないか、ということの話でのすれ違いがあることに気づいた。僕は、後者はいない、ということを言っていたのだ。

もちろん、個人的な対面関係で、「カミングアウトすればいいのに!」と言う人はいるだろう。僕も相手によってそう言うことはある。じゃあ、そう言う人が誰にでも同じように勧めるかというとそれは違うはずだ。

例えば、僕は、ある程度の年齢に達していて、自活していて、活発に活動に参加していて、仲間もいて、精神的に不安定でない人が相手に対しては、そう言うことがある。しかし、そうではない人には基本的にそんなことは言わない。また、相手のことをよく知らない場合にも言わない。

個人関係において「〜すればいいのに」と言うということは、他のことに関して、「〜すればいいのに」というものと感覚的には近い。例えば、「体調悪かったら病院行けばいいのに」「転職活動してみればいいのに」等。

もちろん、それも「おせっかい」であることかもしれない。でも、そのような「おせっかい」に対しては、本来ならばその対面関係において異議申し立てをすればいいことだ。


▼苛立つ背景は?

しかし、カミングアウトについては、「体調悪かったら病院へ」という「おせっかい」とは違う背景があることは確かだ。それが、対面関係でも異議申し立てをしにくかったり、「強く押すアクティビストがいる」という広いイメージを作り上げることになったり、カミングアウトをめぐる話題が出るだけである「当事者」たちに苛立ちを感じさせたりしている。

その背景にあるのは、常に、性的マイノリティは、日々カミングアウトの選択を迫られているという事実だ。とりあえず、ゲイやレズビアンに関して言うと、「結婚しているの?」「結婚しないの?」「いい人(異性)を紹介しようか?」「彼氏いるの?彼女いないの?」という質問は、ある意味で、カミングアウトするかしないかの選択を迫られていることになる。

もちろん、ほとんどの人は迫られていると意識せずに、受け流したりごまかしたりしている。しかし、そのように日々の(ほとんど意識しない)選択があるがゆえに、カミングアウトをめぐる対面関係における「おせっかい」や、「カミングアウトできる人が増えたら社会は変わるのに」として社会的に語られるカミングアウト論に苛立ちを感じるのだ。

またカミングアウトをして「生きやすくなった」と語る人を見ると(僕みたいに?)、「それができたらいいけど、みんなそれができるわけじゃないんだよ」という言い方をする。もちろん、「なんでわざわざカミングアウトするの?」と反発する人も(僕は、その反発の根底には「本当は、できたら楽だ」という前提があると思っている)。


▼続くプレッシャー

しかし、こうして日々迫られる選択はなくならないし、まわりにカミングアウトする人も少しずつだが増えて行くだろう。とすると、カミングアウトしない人は、ますますプレッシャーを感じることになる。

結局は、カミングアウトをすることの負担とリスクと、日々細かいプレッシャーを感じる負担のどちらをとるかということな。もちろん、それの選択の結果は、その人の置かれている状況によってだいぶ違う。

だから、当然、他人が「すべき」と言えるものではない。そんなの当たり前のことなのに、そして、基本的にそういう前提でカミングアウトは話されているのに、「強制されるべきではない」という言葉が枕詞のようにつけられるのだ。


▼進んでみたら…

ま、僕はとりあえず、自分が生きやすいと思う社会の実現に向けて動くだけだ。それは、「身近にゲイがいると知られると、自分に疑いの目が向けられるから迷惑だ」という人からは反発を受けるだろうけれど…。

こういう話をするとき、僕は、中国で纏足(てんそく)という女性の足の成長をとめるという習慣が廃止になるときに、当の女性たちからも大きな反対があったという逸話(真実かどうか確かめていないけれど)を思い出す。

それが当たり前の習慣であり、女性としての「アイデンティティ」の一つだったのだから、ある意味で当然の反応だろう。しかし、纏足が無くなったら、それが生きやすい社会であるということを、当事者の女性たちはわかり、戻ろうとはしなかった(長らく抵抗した人もいた/いるかもしれないが)

同じように、性的マイノリティが顕在化することに対して、また、カミングアウトがどんどんされるということに対して反発する「当事者」は多いけれど、それが広く当たり前の社会になっていけば、そうではない時代に戻りたいと思う人はほとんどいないはずだ、と僕は考えている。

だから、僕はその信念に基づいて邁進する。
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by hideki_sunagawa | 2011-10-14 17:08 | LGBT/gender


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