2011年 08月 30日
昨日の文章だけだと、僕が同性間パートナーシップの法的な保障は必要ないと考えているという印象を与えるかもしれない。しかし実は全く逆で、僕は、異性カップルの権利と同じ権利が認められるべきだと考えている。 どういうファンタジーを抱くかどうかさておき、パートナーシップは、現実には権利や義務という問題に直面する関係性だ。婚姻は、どの社会でも、様々な権利や義務の確認のためにあるものであって、それに「恋愛」と重ね合わされるようになった社会でも基本的には変わらない。 米国の映画「If These Walls Could Talk 2」(日本語タイトル:ウーマン・ラブ・ウーマン)は、三つの時代のレズビアンたちの物語だが、第一話は、1960年代の高齢のレズビアンカップルの話。一方が脚立から落ち病院に運ばれるが、ずっと一緒に暮らして来たパートナーは、「友人」としてしか扱われないが故に面会もできず、待合室で夜を過ごしつつ待っていたにも関わらず、夜中に亡くなったことも知らされない。家も、亡くなった方の名義であったがために、出て行くことに… 実際に、米国で同性婚を求める動きの背景にたくさんの悲劇があったことが、George Chauncey (2004) “Why Marriage?: The History Shaping Today's Debate Over Gay Equality”(=上杉富之・村上隆則訳2006年『同性婚』明石書店)にも記されている。 まさに、現実を生き抜いていくための一つの重要な方法として、同性間パートナーシップの法的保護を求める運動が生じて来たわけだ。その運動の流れに対しての当事者からの批判もある。社会が「まともなあり方」として押し付ける「結婚」スタイルへ迎合し、そのあり方こそが「まとも」であるとする社会の価値観を強化するのか、というのがその一つだ。 その批判もわからなくもないのだが、僕は、多様なカップルのあり方が「結婚」あるいは結婚の準じたものとして認められるようになればなるほど、逆説的に結婚の意味が軽減されていくのだろうと思っている。 そして、現実問題として、誰もが最期のときを迎えるわけで、パートナーがいる人はその関係性が法的に保障されなければ、その最期のときを安心して満足して過ごせないと考えている。 もちろん、法的に認められていなくても、親やきょうだいなどが二人の関係を理解し尊重してくれるなら、臨む通りの最後の時を過ごしやすいだろう。逆に言えば、法的に認められていても、まわりの人が認めてくれなければ、すんなりといかないこともある。そう考えると、法的に通れば全て解決するというわけでもない。ただ、法律ができれば、同性間パートナーシップというものが社会的に認知される後押しになることは確かだ。 Chauncey“Why Marriage?”には、同性間パートナーシップが法的に認められていいく力となったことの一つとして、ゲイやレズビアンがカミングアウトをすることが増える中で、異性愛者の中にも、「自分の友人や家族であるかれらに、自分たちと同じ権利がないのはおかしい」と思うようになったということが書かれてあった。 同性間のパートナーシップだけの問題でなく、ゲイやレズビアンが、よりのびのびと生きられる社会を実現するためには、やはり、まわりにカミングアウトする人が増えて行くことが重要なんだろうな、と思う。 もちろん、そのことにより難しい問題に直面することもあるので、時に慎重さも必要だけれど…。また、このブログでも何度も書いてきたけれど、カミングアウトをすべきとかすべきではないとかは、他の人が言えることではない。けれど、一人ずつが一歩ずつ踏み出すことで、変わって行くことがあると思う。よくカミングアウトを「自己満足」という人がいるけれど、僕は、社会的に意味のある行動だと思っている(仮に「自己満足」だったとしても悪いと思わないけど) カミングアウトと言えば…ということで、最後に宣伝。『カミングアウト・レターズ』(RYOJI&砂川秀樹編著、太郎次郎社エディタス)、今年5刷目が出ました。まだまだ色んな人に読んで欲しいので、まだな人はぜひ。カミングアウトを考えている人、カミングアウトを受けた人への「解説」もあります。
by hideki_sunagawa
| 2011-08-30 20:40
| LGBT/gender
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