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2011年 06月 20日

沖縄ネイティビズムへの違和感

「沖縄好き」とネイティビズム

21年東京で暮らしても、沖縄に帰って来ようと思うくらいなのだから、僕も「沖縄好き」であることは間違いないだろう(もちろん、いろんな面があり、さまざまな人が暮らす「沖縄」をひとくくりにしていいのか?という疑問を持ちつつも…)。

しかし、そんな「沖縄好き」な僕ながら、最近の沖縄の(および沖縄出身の)「知識人」の間で、「沖縄ネイティビズム」のような愛郷心と政治意識が強くなっていることに、少し違和感を感じている。「nativism」というのは、その地に新しく来るものへの反発心を中心としつつ、その地の「伝統」や「文化」を強化していこうとする、心性や思想と言えるだろう。

僕自身、「本土資本」が多く入り利益が吸い上げられる形になること、基地が押し付けられていること、力関係が生じる観光の中で<一部>傲慢に見える振る舞いをする観光客がいること、等には反発を感じるし、多くの「うちなーんちゅ」がそう感じていることだろう…。

また、「こんな、どこの地方都市にもある街づくりしちゃって」とか、「沖縄の郷土芸能や、昔からある遺跡、建物へもっと目を向けてもいいんじゃないか」とも思う。つまり、「うちなー文化」への関心も高い(詳しくはないが…)。


「うちなーんちゅ」?「うちなー文化」?

けれど…まさに、誰を「うちなーんちゅ」と呼び、何を「うちなー文化」と考えるかというところで、僕は「ネイティビズム」(と勝手に呼んですみません)に疑問を感じているのだ。

「うちなーんちゅ」を、沖縄に何代も(?)住んでいる者に限定する考え方はもちろん、生まれ育ったことを条件にする考え方にもなじめない。いや、「うちなーんちゅ」の定義はそれでもいいとしても、その「うちなーんちゅ」と、沖縄に居住する「沖縄以外の出身者」との間に、一義的に線引きする心性や思想に疑問を感じずにいられない。

その地に住み、根ざしている人を、「血筋」的なものや、生まれで分けることって何なのだろう?


東京(など)で教育受けたものは?

でも、そう言いつつも、「そこに生まれずーっと生活し続けた人が、そのようなこだわりを見せるのは、まだわからなくもない」とも思う。僕が違和感を感じるのは、それこそ、東京などの沖縄の外で高等教育を受け、戻って来た人が、そのようなこだわりを見せ、線引きをしようとすることなのだ。

僕などは21年東京に住んでいたから、冗談まじりにしか「うちなーんちゅ、です」とは言えない(まぁ、滅多に「うちなーんちゅ」とも言わないのだけれど…言うならば「(宮古系の)なーふぁんちゅ」か…)。「うちなーんちゅ」と自称して、政治的なポジションを確保することは、とてもおこがましい気がしてできない。

東京のカルチャーの中で教育を受け、知識と経験を積み重ねた自分は、そうではない人と「同じ」とは思えない。僕ほど長く住んでいなくても、特に知識の吸収の多い学生時代に過ごした人は、そうだと思う。

それは、方言を使えるか否か、しゃべり方がどうかということではないと思う(自分が「ないちゃーむにー」する人間だからそう思うのかもしれない)。確かに言葉は非常に大きな要素だが、その言葉の土台にあるコミュニケーションの取り方の違い(議論への態度やその方法、異議の唱え方)が、もっと大きな違いを生むと僕は感じている。


構築/再構築されるものとしての「文化」

そして、「文化」自体が常に混淆し、人々の交流の中で構築/再構築され、意識され、変容して行くという視点なしに、「文化とは、その地の中だけで存在し受け継がれてきたものである」と見る見方も、自分が学び共感してきた文化観と大きく異なる。

常に、「外」からの来訪者との関係の中で、「文化」と意識されるものは形成されるし、変容もする。むしろ、「外」からの来訪者やその視線への意識の中で、「自らの文化」という意識は強化されていく。

そして、どの範囲でくくっても、その中には多様性があり多層性があることへも指摘しておく必要があるだろう。「うちなー文化」とくくっても、本島と宮古、石垣とではだいぶ違う(というか、宮古や石垣の人の中には、「みやこんちゅ」「いしがきんちゅ」という意識を持っている人も少なくない)。また、本島の中でも地域差は大きい。

ただ、ここで誤解のないように言っておきたいのは、「文化」という語りをマイノリティが大きな力への抵抗の術として使うことを否定しているのではない。その「文化」を構成する者を限定的に位置づけたり、他者がその「文化」を語るときに、そこにつねに一方的な力関係が発生していると固定的にとらえたり、そう言って相手を封じようとすることに疑問を感じるのだ。


同じ「当事者」か?

しかし実は、このことに関して、僕の中で整理つかない問題点が一つある。

それは、その土地にずっと住み続け、その土地を離れることが想像的にも実際的にも難しい人と、そこに新しく来ていつでも出て行けるような人、あるいは、その地の出身だけど他での生活の経験もあるがゆえに、比較的出ていくことが難しくない人、は、その土地において同じ「当事者」か? ということだ。

また、ある土地に新しく移り住んで来た人が、その土地のありようを急激に大きく変化させる力を持つことがある。そのことにもともと住んで来た人が反発を感じる…その気持ちはわかるのだ。

このことと、上で書いてきた違和感をどう合わせるのかが、今の僕の課題だ。でも、一つ言えることは、他の土地で長らく住み、そこで高い教育を受けた者は、単純には、その土地から出ることなく生活し続けて来たものと単純に同一視できないということだ。

いや、教育というのは、常により大きな集団における共通知識、共通言語、共通コミュニケーション作法を修得する仕組みになっている以上、高次教育であればあるほど、その場所に関係なく、それを受けた人とそうではない人の間に差異を作り出しているかもしれない(もちろん、それはどちらかが優越しているという話では決してない。)。

そのような差異を無視して、出身だけで<単純に>「同じです」というポジションをとるのは奇妙なことではないか。そう思うのだ。

特に他の地域に身を置き、その空気とともに教育を受けてきた者は、マージナル(境界的)な存在としてのポジションを引き受けて、その地で起こる、「文化」をめぐる問題に向き合って行くべきなのではないか…そんな気がしている。

by Hideki_Sunagawa | 2011-06-20 11:20


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